ドロー魚イング(10)
数多いマンガ遍歴の中で、これほどまでにインパクトを受けた作家・作品はない。
■つげ義春
漫画家、随筆家。『ガロ』を舞台に活躍した寡作な作家として知られる。
本名、柘植義春1937年10月31日東京葛飾生まれ。父は板前。伊豆大島や千葉県大原などを転々とした後、葛飾区立石に育つ。5歳で父を亡くし、貧しい母子家庭で苦労して育った。戦時中は空襲を避けて新潟県赤倉温泉に学童疎開。葛飾区立本田小学校を卒業してメッキ工になったが、母の再婚相手と折合いが悪く、鬱屈した心情から密航を企てて、1952年に横浜港からニューヨーク行きの汽船に潜入。しかし野島崎沖で発覚し、横須賀の海上保安部に連行された。幼少時からの対人恐怖症が昂じたため、独りでできる仕事として漫画家を志し、1955年に若木書房からプロデビュー。当初は「生活の為」貸本漫画誌に数多く執筆していた。しかし作品はなかなか売れず、錦糸町の下宿の支払いを2年分も溜めたため、便所を改造した一畳の部屋に幽閉され、8年間にわたり悶々の日々を送ることとなった。血液銀行に通って売血したのもこの時期のことである。1962年には、自殺未遂を起こして病院に担ぎ込まれたこともある。ほんの一時期であるが、知人の紹介でトキワ荘にも出入りしていた事もあった。寺田ヒロオや赤塚不二夫とは気が合ったが、その他のメンバーとは馴染めなかったという。そして、僅か2週間程で赤塚に別れを告げ、トキワ荘を去った。1965年「噂の武士」で『ガロ』8月号に登場。続いて「李さん一家」など力作を発表。このころ白土三平の赤目プロに出入りし、白土のアシスタントから井伏鱒二らの作品を教えられ、大きな影響を受ける。やがて水木しげるのアシスタントに採用され、美女の顔を描くのが苦手な水木に代わって水木作品のペン入れを手伝うようになった。
1987年、自らの自殺未遂を描いた『別離』を発表。妻藤原マキ(故人)は、唐十郎主宰の劇団・状況劇場の元女優。一男あり。
●つげ義春『魚石』 侍が、中に魚が棲むという魚石と引き換えに、商家から五両を借りる。ところが一年待っても侍は金を返しに来ず、商家の主人は「騙された」と思い、魚石を捨てる。さらに一年たって侍が訪れ「急用で国元に帰っていた。このたび魚石を殿様に献上することになった」と言う。主人は侍に五十両支払うことになる。
●つげ義春『無能の人』 売れない漫画家・助川助三は、いつも散歩する川原の無数の石が金にならないか、と夢想する。彼は、石が美術品なみに売買の対象になっていることを知り、珍しい形状の石を二年がかりで拾い集めて、オークションに出す。石の出品料・宅配便料などで一万七千円の出費があったが、石はまったく売れなかった。妻は「石なんかやめて、漫画を描いて」と言って泣いた。一人息子の三助も泣いた。
つげ義春さんの「魚石」そして「無能の人」ともに石に関する作品であるが、「魚石」についてはなかなか興味深いので、いずれ特集してみようと思う。
この「ど迫力」・・・
マン・レイをしのぐ「シュール」感・・・
このエロティシズム・・・
そして、ノスタルジー。
上画像は、実弟の「つげ忠男」さんの作品です。
上画像は、漫画家「畑中純」さんが制作されたつげ義春さんの「紅い花」のワンシーンです。