やはり「ミヤコ蝶々」さんのことを・・・
大正9年7月6日、東京小伝馬町でミヤコ蝶々(日向鈴子)は生まれた。関東大震災の翌年、柳橋の芸者と深い仲になった父親は彼女を連れて神戸に駆け落ちした。芸好きの父の影響で7歳の時、初舞台を踏んだ蝶々。巡業は九州や四国、近畿、さらには戦前、外地と呼ばれていた朝鮮半島まで及んだ。旅したその距離は地球を一回りするほどになると言う。座長を任され演目に応じてあらゆる役をやり、踊り、歌い、ついにはバレエ「白鳥の湖」まで踊る始末。楽しければ良しという具合だった。『学校に行けないから、義母から勉強を教わった。』楽屋が蝶々の学校だった。20歳を過ぎてからは、大阪に腰を据え、あらゆる芸をやった。だが、生活苦は変わらず、妻子ある落語家と不倫の末、逃げ場を求め、次第にヒロポンにのめり込んでいく。麻薬は確実に蝶々の体を蝕み、体重は30キロまで落ち込んだ。その時に介抱してくれた青年こそ、弟子の吉村朝治。後の南都雄二だった。4歳年下の吉村朝治と世帯を持った29歳の蝶々。籍は入っていなかった。その後、二人は初めてコンビを組むというので、芸名を「チョウチョ」に対する「トンボ」とした。実は、蝶々は漢字がほとんど読めない。『これ、何ていう字?』と聞く事もしばしば…それが、南都雄二の芸名の由来だった。昭和30年、ラジオ番組出演をきっかけに、テレビでも「夫婦善哉」の放送が始まった。コンビは一躍スターダムにのし上がった。しかし、この頃から、夫婦に亀裂が入る。原因は雄二の女癖だった。「夫婦善哉」は20年も続く長寿番組になったものの、それは夫婦を築き、一方で夫婦仲を壊す期間となった。ついには雄二の不倫相手が身ごもった。子供を授からなかった蝶々にとっては辛いことだった。昭和33年、離婚。だがその後も、病気で入院した雄二の病室にたびたび訪れる蝶々。しかし、看病の甲斐なく、昭和48年3月、雄二は48歳の若さで逝った。人生誰しも、やり直せるならやり直したいもの。だが、三遊亭柳枝や南都雄二との出会いと別れなど、人生の分かれ道では、ひたすら前に向かって歩き、新しい道を開いてきた蝶々…。舞台に専念するようになるも、脚本・演出・主役の一人三役。『自分の人生はいつも一人』と呟いた…。晩年は舞台ソデまで車椅子を利用したが、それから先は凛と立って舞台を勤めた。平成8年頃から入退院を繰り返し、再び舞台に上がるため、最後までリハビリを続けていた蝶々。父親の駆け落ち、2度の結婚生活と別離、ヒロポンの常用…。どん底の境遇から這い上がり、人生の荷をたくさん背負いつつも、最後まで芸一筋に生きた彼女は、84年紫綬褒章、93年(平成5年)勲4等宝冠章受章。2000年10月12日、慢性腎不全で亡くなった。