すくらんぶるアートヴィレッジ

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浄厳院その後(10)
日本列島には全部で★約46万カ所以上の遺跡があるといわれています。古墳の総数は全国でコンビニエンスストアの3倍の数★約17万基あるといわれていますが、毎年古墳は発見されています。
■2024年の発見にはユニークなものもありました。
★滋賀県近江八幡市の日野川の水中で発見された5世紀後半から6世紀前半の江頭南(えがしらみなみ)遺跡の古墳は貴重な発見でした。元々は2019年にバードウォッチングをしていた近所の方が、川の中に埴輪があるのを発見したことから調査が始まりました。発見された埴輪は一列に並んだ6基の円筒埴輪で、ここに古墳があるという事を示していました。築造当時の琵琶湖の水位は今よりも低かったので、元々地上に築造された古墳が後の時代に水没し、土砂に埋められたという事が判明しました。河川の改修工事や近年の豪雨で遺跡がチラ見えしたようです。
★徳島県、昨年までの調査で海部野根(かいふのね)道路事業計画の事前調査で前方後円墳1基を含む全部で5基の未知の古墳を発見しています。この古墳群は多良(たら)古墳群と名付けられています。
■2025年3月1日のニュース
奈良市の平城宮跡北側に広がる佐紀盾並(さきたたなみ)古墳群のコナベ古墳の南側に、破壊された大型前方後円墳が発見されて「佐紀池ノ尻(さきいけのじり)古墳」と命名されました。平城京を造営するためにいくつも古墳が破壊されていることは明らかですが、墳丘長が200mに及ぶと推定される巨大な前方後円墳の削平痕が発見されたのは驚きです。この発見は、飛鳥・奈良時代の王朝人が古代の大古墳をどの程度尊崇して祭祀が続けられていたのか? 誰の墓なのかがわかっていたのかどうか? に重大な疑問を呈する状況ではないかと考えさせられます。
★2025年4月のニュース
文化財保存新潟県協議会の発表では、新潟県の佐渡島で全長が30m程度の中型前方後円墳2基が初めて発見されています。時代は空白の4世紀と推定されていて、大和王権が日本海沿いに活発な活動をしていた証拠と考えられています。つづく~

《PROJECT80》27
イサム・ノグチの気になる一枚の写真を追いかけて・・・
★1931年来日し,日本に到着したノグチは、さっそく六月には京都へ旅行し、竜安寺石庭をはじめ、桂離宮、詩仙堂といった寺社仏閣・名所旧跡を訪れ、★日本の伝統や日本美術の真髄に触れた。とくにこの時、★禅宗文化を具現した日本庭園の数々をノグチが体験したことは、のちに彼が手がける庭園作品のデザインに大きな影響を与えたと考えられる。陶芸家★宇野仁松の窯で陶芸を学んだ。
★《宇野仁松》(1864-1937)は京都で陶芸家 和田宗平の息子として生まれ、幼少のころから父と、後に帝国美術院の芸術家となる三代目★清風与平に師事し、21歳で自身の工房を設立しました。通常の京都の理想と比べると外向的な彼は、京都の芸術と文化を促進し、輸出市場(当時は東京と横浜が中心)の活性化に積極的に努めました。彼は1901年のパリ万国博覧会で銅メダルを獲得し、1904年のセントルイス万国博覧会、1905年のベルギー万国博覧会、翌年のミラノ万国博覧会で金メダルを獲得しました。当時の京都の他の陶工と異なり、作品に過度な装飾を施すことはなく、マットな釉と形にこだわった質素な釉薬技法を特徴としていました。これは大変好評を博し、世紀の変わり目から彼の作品はアメリカで非常に人気を得ました。彼はフランスのデザイナーとも密接に協力し、彼の作品の多くはフランスに輸出されました。第一次世界大戦後、彼は国内市場へ引退しました。シルクロード陶器の研究に熱心に取り組み、当時京都ではまだ生産されていなかったシンシャ(フランベ釉)やトルコブルーなどの技法を習得しました。彼は宇野宗甕と宇野三吾の父であり指導者であり、若き★イサム・ノグチの指導者でもありました。東京に戻るとすぐ、★三越百貨店本店において「イサム・ノグチ作品展」の開催が決定しました。この三越百貨店での個展は、当初ノグチの作品を写真で紹介する写真展として企画されたが、ノグチ自身の提案で「眼の前にあって、手に触れることができるような」実際の作品を並べる作品展となった。1950年の来日,★北大路魯山人の好意で,北鎌倉の邸内の一棟をアトリエに借り,そこで数多くのテラコッタややきものを焼いた。三越での作品展のために瀬戸の陶磁器研究所に行き、テラコッタを20点ほど制作しています。「三越のノグチ展は★谷口吉郎が会場をデザインし★1950年8月18日に開幕した。
★《谷口吉郎》1904~1979
https://www.kanazawa-museum.jp/architecture/index.html
金沢建築館は、建築・都市についてのミュージアムです。金沢の名誉市民第一号の建築家★谷口吉郎氏の住まい跡地に、吉郎氏の長男で、国際的に著名な建築家である谷口吉生氏の設計により建設されました。
★剣持勇の工芸指導所で制作した家具数点、ノグチと谷口の共同制作による★新萬來舎の平面図と模型、陶器の壺もありました。ノグチはアートと手工芸のあいだに差はないという日本的な考え方に共鳴していたので、壺も彫刻作品とみなすことができる。ノグチの陶による作品は★埴輪から想を得ていたようでした。
★丹下健三は『戦後、芸術の不毛の時機に、芸術にかわき切った日本にとって、彼の来日は大きなうるおいと刺激を与えてくれた。彼はここで、いつものように…変貌をとげて、★禅の世界に入っていった。そこで彼は日本人以上に日本の真髄をえがき出すことができた。しかしそれは日本のものというよりは、★世界に属し、そして彼自身のものなのであった。』
★《剣持勇》1912~1971
剣持デザイン研究所 / Kenmochi Design Associates
https://kenmochi-design.jp/

《PROJECT80》26
イサムノグチの数ある生前写真のうち、とても★気になる1枚があります。
《野口米次郎》1875~1947
20世紀前半に多数の著作を生み出した詩人かつ国際文化人として国内外によく知られた人物であった。しかし、今日では彫刻家イサム・ノグチの父親として紹介されるに至っている。野口は50年前の『日本の詩歌』(中央公論社)に他の詩人とともに選ばれるほどの詩人でありながら、その付録ではすでに文芸評論家が、一番読んでいない、食わず嫌いと明言するほど、長く忘れられた存在であった。ところが、2012年に堀まどか★『「二重国籍」詩人野口米次郎』が出版されると、同書はサントリー学芸賞を受賞したのである。野口が文化史・文学史に残した業績にようやく光があたったといってよいだろう。
★「二重国籍者の詩」https://dl.ndl.go.jp/pid/968461/1/2
「国際詩人」として評価された野口米次郎(ヨネ・ノグチ)は戦後まもなくの昭和22年7月13日、疎開先の茨城県結城郡豊岡村(現・常総市豊岡町)で胃がんのため死去した。17歳にして渡米、英語で書かれ「東洋のこころ」をもった詩は英米人を驚かせ、その名は波状となって世界に広がっていったが、帰国してからの彼の思いにはつねにジレンマがあった。昭和10年に刊行された日本語詩集『二重国籍者の詩』自序にこう記した。——〈実際をいふと、僕は日本語にも英語にも自信が無い。云はば僕は二重国籍者だ……日本人にも西洋人にも立派になりきれない悲しみ…… 不徹底の悲劇…… 馬鹿な。そんなことを云ふには時既に遅しだ。笑ってのけろ、笑ってのけろ!…〉。
米次郎には在米中に知り合ったアメリカ人女性★レオニーとの間に生まれた子があったが結婚せず、その子が生まれる前に帰国、別の家庭を持った。レオニーと2歳になった子は来日し茅ヶ崎に住んだが、米次郎は一切会うことをしなかったという。その縁薄い子は長じて彫刻家イサム・ノグチとして世界に名を成す。
16歳の時に四日市から上京、一時下宿勉学した縁筋の常光寺、足跡をつけるのが躊躇されるほど清掃された参道を歩いて行く。枝を切られた大銀杏を背後に三個の矩形石を組み合わせた磨き石に「Yone Noguchi」、台座碑に★辞世の詩〈鐘が鳴る かねがなる これを即ち 警鐘と言うのです これがなると皆ねます さあみんな 眠りましょう〉の刻。★因縁の子イサム・ノグチの設計である。
★釣鐘に野口米次郎「辞世の詩」が描かれている背景を前に撮られた写真(撮影★三木淳)~気になる!!!

《PROJECT80》25
北大路魯山人とイサム・ノグチの親交について、あらためて日本文化の奥深さを再認識させられました。
《其中窯》247-0066神奈川県鎌倉市山崎2336-4/0467-44-5764
https://www.kichuyo.com/index.html
人間国宝を二度辞退したと言われる日本の名陶芸家にして美食家・芸術家として知られる北大路魯山人が築いた有名な「星岡窯」の登り窯が★「其中窯(きちゅうよう)」と名を変えて北鎌倉の地で守られています。
★雅美ということ/北大路魯山人
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/55108_69746.html
書と篆刻で生計を図るかたわら、大正10年には、京橋に美食倶楽部をはじめる。そこが震災で焼けてからは、美食倶楽部を星ケ岡茶寮に移し、昭和12年まで共同経営し、自ら厨房長となつて腕をふるい、政界財界の食通人の間に名声を博した。魯山人が作陶を始めた動機は、その折、自分の作つた料理を盛るのにふさわしい器がないという理由から、その食器も自分で作ろうとしたことにはじまる。こうして、料理に適した食器の研究、制作が続けられ、その手になる器皿は食器としての最上の効果を発揮するとまで称讃されるようになった。後、★北鎌倉の窯場(神奈川県鎌倉市)に定住して作陶に専心、ますます陶芸家としての名声が高くなつた。
イサム・ノグチは名古屋の★八勝館に宿泊した際、北大路魯山人の器を見て後日、彼の窯を訪れます。山口淑子と結婚したイサムが住まいを探していることを知った魯山人は離れの「田舎家」を提供しました。北大路魯山人は作陶上のよき師でもあり、そのイサム・ノグチとロックフェラーの招きで、昭和29年米国と欧州に遊び個展を開いた。この個展は、魯山人の名声を国際的なものにし、その評判は、更に、わが国の陶磁を世界に再認識させる契機ともなつた。魯山人は、終始一切の会に所属せず、独自の研究と作風で制作を続け、個展は70回近く開いたといわれるが、個展以外はどのような展観にも出品せず、完全に陶芸界を★独歩した。
《東光院「萩の寺」》
561-0882豊中市南桜塚1丁目12番7号/06-6852-3002
https://www.haginotera.or.jp/outline/people_rosanjinkannon.php
大正13年から北大路魯山人が顧問兼料理長を務める高級料亭★「星岡茶寮」が昭和10年阪急曽根駅前に大阪店を新設しました。魯氏は隣接した観音霊場★「萩の寺」に、星岡窯で自ら制作した白衣観音像を奉納して、千年の萩の花が咲き誇るその自然美を礼賛し、茶寮繁栄を祈願されました。豊中五勝の一つである萩苑を「萩露園」と命名したのも魯山人です。「愛・地球博」開催を記念して、この魯山人観音を等身大に模刻し、戦時中萩の花を命懸けで守った先人達の気概を、環境保全の先駆者として顕彰させていただきました。この観音様をよすがに、利休の茶事を愛し、萩の寺の風光を愛でた文人・墨客・芸術家を偲び、人と自然の共生が未来永劫に守り続けられることを願うものです。