根源的な運動としての「発」と「集」 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

この正月に、今後の生き方、働き方を考えた人も多いのではないだろうか。コロナが蔓延する中で、それはより切実な課題として人々の心に浮かび上がってきた気がする。

 

僕もふと、「自分はどんなことをやってきたんだろう」「どんなことをやっている時が楽しいんだろう」と、そんなことを考えた。そこには、次の4つのプロセスが共通しているような気がした。

 

①発見

②収集

③編集

④発表

 

たとえば、拙著『考えない論』の場合。

 

①日常の中で、考えないことの大切さに関する「発見」がある。

②その発見を記憶やメモなどで「収集」する。

③その収集したものを文章、あるいは本として「編集」する。

④その編集したものを「発表」する。

 

『考えない論』に限らず、ものを作るときは、だいたいこのプロセスを辿っている。粛々と運営している「かがり火WEB」も、ほとんど一文の得にもならないのになぜ続いているのかといえば、このプロセスが楽しいからだと思う。

 

これの場合、最初から記事が存在するので「発見」のプロセスはないけれど、そこから『かがり火』の過去の記事を収集し、WEBの形で編集し直し、それをアップして発表するという、このプロセスが楽しいのだろう。あえて言えば、ここで抜け落ちている「発見」のプロセスは「発掘」に置き換わっているのである。

 

このプロセスで仕事をしている代表的な人が、みうらじゅんさんだろう。「アウトドア般若心経」「いやげもの」「シンス」「LOVEスクラップ」など、まさに発見、収集、編集、発表のプロセス自体をなりわいにしている。

 

普通の人にとっては「どうでもいい」もの、たとえば縁日で売っているゴムヘビのようなものでも、それを大量に集められて、それぞれのゴムヘビのウンチクやゲットしたエピソードとともに編集し、大々的に発表されると、思わず「おお〜!!」となってしまう。そしてその「どうでもいいもの」への眼差しそのものが「発見」なのである。

 

この発見、収集、編集、発表のプロセスで特に注目したいのは、「発」と「集」である。そこを太字にすると次のようになる。

 

②収

③編

 

一連のプロセスの最初と最後に現れる「発」、その間にある「集」。この「発」と「集」というのは、実は生命の根源的な運動なのではないだろうか。

 

たとえば僕らが常に行っている「呼吸」。これも、息を吐くことで体内から空気を発し、息を吸うことで体内に空気を集めるという、「発」と「集」の繰り返しの運動である。

 

心臓の動きだってそうである。血液を心臓から全身に発し、それをまた心臓に集める。その繰り返し。

 

さらに言えば、宇宙そのものの運動だってそうである。ビッグバンの発生によって宇宙が生まれ、その宇宙はやがては収束するという。これもまた、あまりに巨大な「発」と「集」の運動である。

 

実は人間の意識も「発」と「集」の運動だと捉えることもできる。ふだん何も考えていないときは、意識が空間に漂っている状態、つまり意識が散漫になり、発散されている状態である。そして何かを意識する時には、それを集めて、文字通り「集中」するのである。

 

そして「時間」もまた、「発」と「集」の運動なのだと僕は思う。

 

現代の僕たちは、時間を直線的で等速な流れとして捉える。いわゆる「時計の時間」である。しかし日本の伝統的な考え方では、時間は「時(とき)」と「間(ま)」の繰り返しとして捉えられていたという。「時」というのは、「食事をする時」とか、「畑を耕す時」とか、「山田さんと会う時」とかの、いわば出来事のようなことである。そしてその出来事と出来事のあいだ、つまり「時」から「時」までのあいだが「間(ま)」である。

 

「間が悪い」とか「間抜け」という言葉があるが、それは「時」と「間」の繰り返しという原理に反することを諌めているのかもしれない。改めて考えるまでもなく、休憩なしに働き続ければ過労死するし、睡眠なしに生活すれば死んでしまうのである。

 

この「時」と「間」の繰り返しも、先ほどの「意識」の運動と同じように捉えられるだろう。出来事としての「時」は意識が集まる場、つまり「集」である。その時と時の「間(あいだ)」は、ある意味で意識されない時間であり、それは「発」の状態である。

 

この構造は、量子論による物質の捉え方を彷彿とさせる。物質は本質的に波と粒子が重なり合った状態として存在していて、人間がそれを観察した時には粒子となり、観察していない時には波として漂っているという、実に不思議な振る舞いである。だからこれも、物質の本質は「発」と「集」の繰り返しであることを表しているのかもしれない。

 

このように見てくると、「発見、収集、編集、発表」というプロセスは、宇宙の根源的な運動の模倣のようにも思われてくる。なんだかプラトンのイデア論が思い起こされるが、いずれにせよ、そう考えるとなんだか面白いではないか。

 

誰かが発表したものは、何らかの形で世界に広がり、影響を与える。これを「発」の状態だとすれば、そのような多数の「発」の影響を受けた誰かが、ふたたびそれらを「集」の状態へ移行させ、別の形で発表する。これを世界の全体から見れば、ひとつの生命活動とも言えるだろう。

 

「発」と「集」の繰り返し。この視点で世の中のいろんなものを眺めてみると、ちょっと面白いかもしれない。