説得力のある文章を書こうとするとき、非常に便利なのが「引用」である。
自分が主張したい内容をエビデンスによって補強したり、その分野の権威と言われる人の文章を紹介して、「ほら、この人も同じことを言ってますよ!」と間接的に応援してもらったりするわけである。特に論文などでは、自分の考えの根拠を提示するために極めて重要な要素ともなる。
だがその便利さ、効果の裏側には、危険な罠も潜んでいる。
引用に使われる文章は、すでに一定の社会的評価を得ているもの、あるいは論旨明確、反論の余地がないものが使われやすい。そこに大きな落とし穴がある。
最初はあくまで「自分の考え」を補強するために引用を使っていたはずが、いつのまにか、「その引用を使うために」論理を展開するようになってしまうことがある。そうすると、だんだん自分の考えが文章から薄れてきて、気がついたら、他人の考えを自分が一生懸命補強している、という転倒が起こりかねないのである。僕自身、しょっちゅうコレをやっている気がする。
もちろんその「引用」は、もともと自分の論理を補強するために使おうとしたものだから、たいてい自分の考えに近いものではある。しかしその文章のニュアンスや、その考えが生まれた文脈が違う以上、やはりそれは「別のもの」なのである。
にもかかわらず、それは自分の文章以上に権威を持っていて、社会的評価も得ている。そうすると、いつのまにか自分の考えが、その「引用」の文脈に引きずり込まれてしまいがちなのである。
これは書き手としては非常に恐ろしいことだが、ある意味で避けられない事態でもある。むしろそうして「引用」の文脈に引きずり込まれることで、自分の中になかったアイデアに辿り着けることもある。しかし、それはあくまで付随的な効果にすぎず、書き手はやはり「自分の考え」を表現することにその本分がある。
さらに恐ろしいことに、この「引用に引きずり込まれる」という事態は、文章だけではなく、人生そのものにおいても起こり得る。
「自分の人生」をより良いものにしようとして、すでに社会的評価を得ている人の書籍や、エビデンスのあるロジックを参照することは誰にでもあるだろう。それ自体は良いことだと思うのだが、それが行きすぎると、そのエビデンスやロジックを再現することが目的となってしまい、肝心な「自分の人生」がどこかへ行ってしまう、ということが起こり得る。
これはとっても怖いことだけれども、そのような影響を完全に排除することは不可能だし、完全に排除するべきだとも思わない。そのような「引用」の影響を受けながら、その上で創造される文章なり、人生なりがあるのだと思う。
でも自分に自信を持てない時などは、この「引用」の魔力に引きずり込まれて、「自分の考え」を失ってしまいやすい。でも、本当に新しい考えが生まれてくるのは、そうして何かの魔力に引きずり込まれた後に、そこからもう一度「自分の考え」を再創造する時のような気もする。いや、もしかするとその境地に至れば、もはや「自分の考え」とか「他人の考え」という区別もなくなっているのかもしれない。
本当に文章を書くということは、実際に引用という手段を使うか否かに関わらず、この「自己の喪失」と「自己の再創造」のプロセスなのだと思う。だから本当に「書けた」と思えた時は、書き終えた瞬間、ほんの少しだけ自分が変わっているのではないか。それはひとつの旅のようなものかもしれない。自分にとってわかりきったことなら、わざわざ書こうとは思わないのである。