志村けんが教えてくれたこと | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

志村けんが亡くなった。

 

そのことを朝、ふと思い出した。

 

脳内にあのメロディーが流れた。

 

♪か〜ら〜す〜 なぜ鳴くの〜 カラスの勝手でしょ〜(カ〜カ〜)

 

子どもの頃によくマネしたこの歌。もちろん替え歌である。

 

もとの歌の歌詞はこちら。

 

■七つの子

作詞:野口雨情

作曲:本居長世

 

からす なぜなくの からすは やまに

かわいい ななつの こがあるからよ

 

かわい かわいと からすは なくの

かわい かわいと なくんだよ

 

やまの ふるすへ いってみてごらん

まるい めをした いいこだよ

 

替え歌は志村けん自身の作ではないらしいけれど(近所の子どもが歌っていたらしい)、でもそこにちゃんと面白さを発見するのが、彼のコメディアンとしてのセンスなのだろう。

 

しかもこの替え歌、改めて聴いてみるとなかなか味わい深い。

 

もとの歌である「七つの子」では、カラスが鳴くのは「子どもがかわいいから」だという。

 

それに対して「志村バージョン」では、カラスが鳴くのは「カラスの勝手」だという。

 

「カラスの勝手」とはずいぶん突き放したような言い方だけれども、それは要するに「わからない」ということだろう。「カラスが鳴くのはカラスの自由であって、その理由は人間にはわからない」と言っているのである。

 

どちらの方がカラスを尊重しているかと言えば、僕は「志村バージョン」の方だと思う。

 

人間同士でさえ、お互いの本当の気持ちなんてわからない。自分自身の気持ちでさえわからないことがたくさんあるのだ。だが、にもかかわらず「わかろうとする」ところに思いやりがあるのであって、「わかった」と思うのはただのエゴイズムである。

 

こう書くと元歌の「七つの子」が悪いように思われるかもしれないので念のために書いておくと、こちらはあくまでカラスを比喩にして「わたしの気持ち」を歌ったもので、本当にカラスの気持ちを歌おうとしたものではないと思う。そう言えばウチのオカンもよく歌っていた気がする(笑)。

 

ところである時、この「相手の気持ちなんてわからない」ということを臨床心理士の友人に話したら、ずいぶん怒られたことがある。なぜ相手のことを考えないのか、と。

 

そうじゃないのである。わからないと思うからこそ、わかろうとするのだ。けれども、やっぱり本当のことはわからない。たとえ相手が、僕の言葉に対して「その通りだ」と言ったとしても、である。そういう謙虚さを持たなければ、それはただの自己満足にすぎない。僕たちにできるのは、「かもしれない」を積み重ねることだけである。

 

にもかかわらず、お互いに「わかり合えた」と思える瞬間があるのもまた確かなことである。でもそれは頭で理解することではない。

 

現代を生きる僕たちは、この「わからない」という謙虚さを失いつつある気がする。それは今回の新型コロナウイルスへの対応を見ていても感じることである。

 

「わからないもの」には、「わからないもの」として対処しなければならない。感染病への対応の手法は時代によって変わるけれども、その基本原則である「持ち込まない、持ち出さない、拡げない」は100年以上前からずっと変わらない。これがなぜ変わらないのかと言えば、それが「わからないもの」への対処法として考えられているからである。

 

しかし現在の日本政府は、この原則を守らなかった。当時の日本統治下全体で74万人(全体の0.96%)が死亡したと言われるスペイン風邪の経験をふまえ、ウイルスの性質が未知のものであることを前提とすれば、とにかく最初の水際で食い止めることに全力を挙げる必要があったことは明らかだろう。

 

国内での流行が確認されてからも、いわゆる「専門家」たちによる「科学的な」見解が流布された。多様な見解が出てくることはよいことだけれど、本当のところが「わからない」のであれば、それを「わからない」ものとして対処しなければならない。そので重要なのは、まず「最悪の事態を想定する」ことであり、その上で少しでもリスクを減らすための行動を取ることだろう。それは危機管理の基本でもある。それをせずにウイルスを甘く見た結果が今であり、今後東京でも起こることが予想される感染爆発である。

 

近代以前の人々が信じた「神話」や「迷信」。近代化とはこれらを否定することだったが、実はそこに書かれているのは、「わからないものにどう対処するか」という、経験に基づいた深い知恵である。近代はそうした「わからないもの」への対処法を捨てて、それらを「わかる」ことによって克服しようとした。それを可能にするのが「科学」であった。

 

ところが言うまでもなく、「科学」によって全てを明らかにすることはできない。科学が明らかにできるのは、世界の断片だけである。しかし断片をいくらつなぎ合わせても、それは世界の全体を再現しない。フランケンシュタインが人間にはなれないのと同じように、である。だがそのことを傲慢にも忘れ、謙虚さを失ったとき、僕たちは「わからないもの」への対処をことごとく間違ってしまうのだろう。

 

♪か〜ら〜す〜 なぜ鳴くの〜 カラスの勝手でしょ〜

 

この歌が多くの人にウケたのは、一見ふざけているように見えて、そこに「ああ、確かにそうだ」と感じさせるものがあったからだろう。「そうだ、そりゃあ人間にはわからない。カラスの勝手だ(笑)」と。それが本当の「ユーモア」というものだと僕は思う。

 

志村けんは「天才!志村どうぶつ園」という番組を晩年まで続け、その動物好きは周知の通りである。そして周りが不思議に思うほど、動物に好かれたようである。でも多分、志村けん自身は、自分が「動物の気持ちがわかる」とは思っていなかったのではないだろうか。むしろ、「いやあ、お前ら本当に何考えてんのかわかんねぇんだよな」と思っていたような気がする。そしてそのことを面白がっていたのではないだろうか。

 

わからなくても、お互いを思いやることはできるし、共に生きることはできる。そこに人間と動物の素晴らしさがある。

 

ふと頭に浮かんだ志村けんの替え歌は、僕にそんなことを考えさせた。

 

いやー、それにしても志村けんには、子どもの頃からめっちゃ笑わせてもらいました。

最高でした。本当にありがとうございました。

 

心よりご冥福をお祈りいたします。