左利きは本当にクリエイティブなのか? | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

左利きは「クリエイティブな人が多い」、あるいは「天才肌が多い」などとよく言われる。僕自身が左利きなので、これを聞くとちょっと得意な気分になるけれど、この言説が本当なのかどうかはよくわからない。言われてみればそんな気もするし、「実はそうでもないらしいよ」と言われれば、ああ、そうでもないんだな、と思ってしまう。

 

「左利きクリエイティブ説」の根拠としてよく言われるのは、「右手は論理性をつかさどる左脳とのつながりが強く、左手は直感をつかさどる右脳とのつながりが強いから、左利きは右脳が優位で、クリエイティブな人が多い」というもの。だがその真相はよくわからない。

 

けれど、もし左利きにクリエイティブな人が多いとすれば、僕は次のような理由があるのではないかと思う。それは、「左利きは『他人と違う』あるいは『少数派である』ということに慣れている」ということである。……左利きとは思えないくらい普通の考えで申し訳ないけれど(笑)。

 

まず確かに言えるのは、左利きはなんだかんだ言っても「少数派」だということである。これは間違いない。右利きの人はあまり意識しないと思うけれど、世の中のほとんどのものは「右利き用」として作られている。電車の改札を通るたび、ハサミで紙を切ろうとするたび、自動販売機にお金を入れようとするたび、左利きは「多数派優遇社会」の洗礼を受けているのである。

 

そしてたいていの場合、自分の隣にいる人間は「右利き」なのであり、学校のクラスのほとんどの連中もやっぱり「右利き」なのである。何かしらの作業のやり方をみんなで一緒に教わる時も、先生は基本的に「右利き用のやり方」をまず教える。これは仕事においてもそうである。僕は若い頃、よく工場でアルバイトをしていたのだが、ここでももちろん作業工程は「右利き用」に組み立てられている。他のパートのおばちゃんから、「あの子、ものすごく不器用だけど大丈夫?」という憐れみの目で見られたことは一度や二度ではない。……いや、実際不器用であることは間違いないのだけれど(笑)。

 

要するに、左利きの人間にとって、「他人と違う」ということは日常であり、特別なことではないのだ。

 

僕がここで言いたいのは、「だから左利きはクリエイティブなのだ!」ということではない。むしろ逆である。右利きと左利きの違いによって、おそらくクリエイティブな才能に差はない。差があるとすれば、それは「クリエイティブな才能」などではなく、自分が思いついた「他人と違うこと」を、「平気で発表したり、形にしたりできるかどうか」だ。

 

他人と違うことが日常である左利きは、自分の考え方が他人と違っても、「そういうもの」としてそのまま受け入れることができる。だから、それをそのまま発表することができるのである。

 

それに対して右利きは、左利きに比べて「他人と違う」という経験の回数が絶対的に少ない。だから自分の考え方が他人と違ったりすると、「あれ、私おかしいのかな?」などと思って、発表を控えてしまいがちなのではないか。ひどい場合には、いつの間にか、多数派の考え方に自ら合わせていってしまう、ということさえあるかもしれない。

 

一流の人が決まって言う言葉がある。「自分に才能などない。ただ他の人よりたくさんやっただけだ」。つまり大事なのは「才能」ではなく、「量」であり、「回数」だと彼らは言うのである。その点、左利きは「他人とは違う」という経験の量において、右利きを圧倒する。それによって「左利きがクリエイティブになる」というより、単に「他人とは違うもの」を「平気で発表できるようになる」というだけの話なのではないか。

 

だから左利きと右利きの違いは、クリエイティブな才能の違いではなく、自分の中にある「他人とは違う考え」を発表できるか否か、の違いでしかないのかもしれない。だとすれば、自分が右利きだからといって、左利きよりクリエイティブな才能で劣るなどと思う必要はない。みんなと違う考えを持ったときに、それを「おかしい」などと思わずに、平気で発表していけばいいのだ。「発表する」のが恥ずかしければ、それをコッソリ何らかのカタチにして、他人に「発見してもらう」のだ。

 

左利きの僕が、なぜこんなに熱く右利きを応援しているのか自分でもよくわからないが(笑)、とにかくせっかくの「自分の考え」を、「他人と違う」という理由で埋没させてしまうのはあまりにもったいない。種の存亡の鍵は多様性の確保にあり、他人と違うということは、それだけで人類の財産たり得るのである。