「愛=大切」(婚活と結婚について) | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

以前、僕より若い友人と

温泉につかりながら話をしたことがあった。

 

彼は30代前半の既婚者なのだが、

周りには「婚活をしまくっているけれども

なかなかいい出会いがない」と

嘆いている女性の友人がたくさんいるという。

 

彼はほんとにいい人なので、

おそらくよく相談されるのだろう。

 

その時に話した僕の考え方を、

「それ彼女らにも聞かせてあげたいっす」

と彼は言ってくれた(いい人なので)。

 

僕自身、自分の考え方が正しいなんて

これっぽっちも思っていないのだが、

そもそも絶対的に正しい考え方など存在しない。

 

けれども、その人にとって

生きるのがラクになるような

「モノの見方=考え方」はあるだろう。

 

その時に僕が彼に話したことも、

そういうひとつの「モノの見方」にすぎない。

 

さて、婚活と結婚の話だが、

「結婚相手を自分で選ばなければならない」

という風潮が人々を

苦しめているように思えてならない。

 

確かに「この人だ!」と思える相手と出会い、

互いに「結婚したい!」と思って

結婚することに何ら異論はない。

 

「自分の結婚相手を

 自分で選べる時代になってよかったねえ」

と昔の人は言うかもしれない。

 

しかし、である。

 

日本人は今でも、

結婚の報告をするときには、

「結婚します」

ではなく、

「結婚することになりました」

という言い方をする。

 

つまりそれは、

自分たちの意志だけでなく、

なんらかの「それ以外の力」あるいは

「自然の流れ」のようなものの存在を

認めているのである。

 

だから「します」ではなく、

「することになりました」と言うのである。

 

そして「結婚して家族になる」ときには、

やっぱりそういう自分たちの計らいを超えた

「偶然性」のようなものが重要だと、

僕らは無意識的に感じているのではないか。

 

たとえば、僕にとって家族は

かけがえのない大切な存在だが、

それは僕が選んだ人々ではない。

 

世の中には

「赤ちゃんは親を選んで生まれてくる」

と考える人たちもいるけれど、

少なくとも僕にそんな覚えはない(笑)。

 

だから僕は家族を「選んでいない」(たぶん)。

 

にもかかわらず、いや、だからこそ、

僕にとって家族はかけがえのない

存在なのではないかと思うのだ。

 

これがもし、

「僕が自分で選んだ家族」だったなら、

何か大きな問題が起こったときに、

「ああ、自分の選択が間違っていたんだ」

ということになってしまうだろう。

 

もちろん、

家族のカタチは多様であっていいし、

血縁によるものでなくてもいい。

 

「自分の家族は自分で選ぶ」

という時代がこれからやってくるのかもしれないし、

すでにそういう家族はたくさんあるだろう。

 

だがそういう家族をつくっていくには

やっぱり「自由に解散もできる」ということが

より重要になってくるだろう。

 

しかし生まれた時から

無条件に「家族」である存在は、

その無根拠性にこそ強みがあって、

おおむね無条件に助け合う。

 

もちろんDV親父などは論外だが、

それでもやっぱりなんとかしたいと思うのは、

家族が無条件に「家族」だからだろう。

 

それなのに、僕らは結婚相手となると

「自分の意志」というものを

ものすごく大事にしようとする。

 

3組に1組が離婚すると言われるが、

ここまでの考え方で言えば、

「自分で選んだ相手だから離婚するのだ」

という言い方もできるだろう

(もちろんそれで全然かまわない)。

 

ある意味で、家族にとって大切なのは、

否応なく家族として生まれてきた

「偶然性=運命性」ではないか。

 

自分で選択的に家族を形成するときにも、

そこにある種の運命性を感じられるか否かは、

けっこう大きな影響がある気がする。

 

そうだとすれば、

結婚にもおいてもそうした

「偶然性=運命性」が求められてしかるべきで、

実際にそれは儀式の中にも組み込まれている。

 

結婚式が神様を前にして行われるのは、

「神様に永遠の愛を誓うため」などではない。

 

それは結婚に至った

「偶然性=運命性」を確認するためであり、

要するに結婚を「神様のせい」

にするためなのである。

 

自分で決めたことなら、

自分に自信が持てなくなったとたんに

全てが崩壊する。

 

しかし

「神様(あるいは自然)が決めたこと」

だと思えれば、

「まあ何とかなるんじゃないか」

という気がしてくるではないか。

 

それが本当に神様の力かどうかは、

この際どうでもよい。

 

ここでは二人が一緒になった

「偶然性=無根拠性」を「神様」と

言い換えているだけなのだから。

 

だから婚活をするにしても、

自分の理想を成就しようとする意志を

ひとまず横に置いといて、

今ある関係の中に身をゆだねて、

そこにある偶然性や運命性の方を大切にすると、

少し視野も広がるのではないかという気がする。

 

これは決して「妥協をせよ」

と言っているわけではない。

 

むしろ逆である。

 

現代の「自己決定的」結婚観は、

資本主義の論理とがっちり結びついている。

 

要するに、相手を「値踏み」している、

いや、「値踏み」せずにはおれないのである。

 

そこでは意識するしないにかかわらず、

結婚相手もひとつの「商品」であり、

「よりよい商品」を求め始めたらキリがない。

 

その意味で、あらゆる「自己決定的」結婚は

「妥協の産物」である。

 

もちろんそれが良いとか悪いとかは

全く別の話である。

 

ちょっと記憶が定かではないが、

たしかある思想家は、

「現代社会において純愛は存在し得ない」

と断言していたのではなかったか。

 

確かに現代の資本主義社会においては、

「愛」も商品化の対象である。

 

「愛」というものに至高の価値を認め、

それを得るために活発な消費活動が行われる。

 

トレンディードラマなどによる

「恋愛至上主義」的な価値観の流布も

これに大きく貢献した。

 

ちなみにいま日本で使われている「愛」は

ヨーロッパの概念である「love」の翻訳語であり、

もともと日本にはなかった概念である。

 

そして一番最初に「愛」の概念が

ポルトガル語のamor,caridadeとして

日本に持ち込まれたとき、

それが何と訳されたかはあまり知られていない。

 

実は、「大切」または

「御大切」と訳されているのである

(『哲学・思想翻訳語事典』)。

 

「愛=大切」。

 

僕には、今風の性愛的な「愛」よりも、

こっちのほうがずっとしっくりくる。

 

いや、もちろん性愛的な

「love」で結婚するのも悪くないどころか、

むしろそれがあるなら結婚はより容易だろう。

 

「結婚は勢い」というのは本当だと思うし、

「この人しかいない!」という熱愛は

まさに「勢い」そのものだろう。

 

ただこれはどうしても

年月とともに冷める傾向があるらしい。

 

しかし、そんなことはたいした問題ではない。

 

その間に「熱愛」とはまた別の、

かけがえのない関係性を築けばよいのである。

 

ただ、結婚したいけどふみきれない人は、

「愛する人と結婚する」と考えるよりも、

「大切な人と結婚する」と考えたほうが、

ハードルはずいぶん下がるような気がする。

 

そしてその人のことを大切に思うのは、

意志の問題ではなく関係性の問題である。

 

日本の場合、結婚制度そのものにも

ずいぶん問題があるのだが、

今回その議論は置いておく。

 

結婚は「目的」ではなく「手段」である。

 

「できちゃった婚」だって、

主体はそこに生まれた関係性であって、

結婚はそれを守るための「手段」にすぎない。

 

内田樹さんは

「結婚とは安全保障である」

と喝破しているが、

ある意味で「その程度のもの」と

気楽に考えた方がよいのだろう。

 

僕の人生の大先輩があるとき言っていたが、

イギリスでは「結婚した」と言うと、

「えっ、なんで?」とむしろ変人扱いされるという。

 

なぜかといえば、

結婚などしなくても一緒に暮らしていれば、

結婚したのと全く同じ権利が得られるかららしい。

 

このへんは僕もちゃんと調べていないので

あまりアテにしないでほしいのだが(笑)、

少なくとも日本ではそのような権利を得るためには

やっぱり制度上「結婚」が必要となる。

 

だから結婚なんて単に

「その権利を得るためのもの」

と気楽に考えればよいというのである。

 

そして結婚にもしも

「いい結婚」というものがあるとすれば、

それは「お互いに相手を喜ばせたいと思えること」

だと彼は言うのである。

 

それに比べれば恋愛感情など

どうでもいいのだ、と。

 

そのような、

「互いを大切にしたい関係性」

があるということのほうが、

結婚以上に本質的なことのように

僕にも思われるのである。

 

 

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