「考えないこと』の大切さ(『かがり火』リレーエッセー) | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

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 ヒューマンネットワークマガジン”

『かがり火』のリレーエッセーのコーナーに、

縁あって寄稿することになった。

 

 

 

 

この雑誌は一般の書店では

ほとんど置いていなくて、

年間購読で隔月に自宅へ届く仕組み。

 

なのでそれ以外の方は

ほとんど目にしないと思われるので、

今回ブログに転載させてもらうことにした。

 

ゴールデンウィークで暇を持て余している方は

お読みください(笑)

 

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『かがり火』リレーエッセー No.44

 

■「考えないこと」の大切さ

 

杉原学(著述業・高等遊民会議世話役)

 

僕が本誌『かがり火』の存在を知ったのは、大学院で内山節先生の授業を受けたのがきっかけでした。そして購読を始めて1年ほどたった折、友人の大谷剛志君が「ヤギサワバル」というクラフトビールの店を西東京市にオープン。彼の自由な生き方が『かがり火』の雰囲気にぴったりな気がして、発行人の菅原さんにご紹介させていただきました(本誌172号に掲載)。

 

その際、名刺がわりにお渡ししていた拙著『考えない論』(杉原白秋著、アルマット、2013年)を菅原さんが面白がってくださり、「本のエッセンスをこのスペースで書きたまえ」という命を受け(笑)、これを書いています。

 

『考えない論』は、「考えることよりも、考えないことの方が、本当は大切なのかもしれない」というようなことを、面白おかしく書いている本です。脳科学、武道、仏教、時間論など、さまざまな分野のトピックを横断する内容で、「ソフト哲学書」などと紹介されることもあります。

 

今でこそ「瞑想」とか「マインドフルネス」という形で、「考えないことの大切さ」が見直されてきていますが、そもそも僕らは「考えることの大切さ」ばかりを言われて育ってきました。「ぼーっとしろ!」と怒られたことなど、今まで一度もありません(笑)。

 

しかしこの「考える」という行為がクセモノで、自分では自由に発想しているつもりでいても、実は考えれば考えるほど、現代社会の画一的な価値観にからめとられていく、という面があります。そしてこのことが、現代人である私たちを追いつめているように思えてなりません。

 

というのも、「自己責任論」が幅を利かせるような社会では、人生において大きな問題が発生した時にも、それを全て自分だけで抱え込まなければならないような気になってしまいます。しかも真面目な人ほど、そういう罠に陥りやすいところがあるのではないでしょうか。「自分でしっかり考えて、自分の力で解決しなければならない」というわけです。でも本当のことを言えば、人間はさまざまなつながりと、その相互作用の中で生きているわけですから、全ての責任を個人に帰することなどできるはずがありません。にもかかわらず、「私的所有」を基盤とする資本主義社会は、そんな「フィクション」を成立させながら展開しています。そして皮肉なことに、考えれば考えるほど、つまり理屈で物事を捉えようとすればするほど、その「フィクション」に巻き込まれていく、ということがあるように思います。

 

僕自身は決して真面目な人間ではないのですが、やはりこの罠に捕われて、人生に行き詰まった経験があります。なんとかその局面を打開しようとひたすら考え続けるのですが、そうすることで逆に袋小路に追いつめられていく感覚がありました。今になって思えば、その時に考えていたことは「自分のこと」ばかりで、そんなときほど「自分が生きている意味」は見えなくなるものです。

 

そんな中で「これからどうすればいいのか」の答えは全くわかりませんでしたが、「この延長線上に幸せはない」ということだけはよくわかりました。そうであるならば、これまでやってきたことと全く逆のことをやってみたらどうだろう。今までさんざんやってきた「考える」という行為を完全に放棄して、「考えない」ということだけをやってみたら……。結果的にこの転換が功を奏して、『考えない論』が生まれるきっかけとなりました。といっても、この転換は自らが選択したというよりも、もはや「そうするしかなかった」というのが本当のところです。

 

これは僕の個人的な体験にすぎませんが、現代社会の状況もまた、案外こうした転換とリンクしているような気がします。近代以降、「個人」を基盤にしながら、理屈で捉えられる世界だけでやってきたものが、いま行き詰まりを見せています。でもそこにも、目に見えない小さな転換がたくさん起こっていて、そんな「希望のありか」を教えてくれているのが、本誌『かがり火』の存在だと僕は思っています。そう考えると、『かがり火』に登場する人々が、どこか理屈を超えたところで動いているように見えるのにも納得がいきます。言葉で説明するのはむずかしいですが、「考えること」によって人間が見失ってきたものを、もう一度社会の中に取り戻そうとしているかのような……。

 

さて、この『考えない論』ですが、なんと出版元が倒産してしまったこともあり、いまでは絶版になっています。ですので、中古でしか手に入りません。「せっかく読んでやろうと思ったのに」と思っていただいた方は、よろしければ内山節先生、細川あつしさん、梅田一見さんとの共著『半市場経済』(角川新書、2015年)を手に取っていただけると幸いです。第三章「存在感のある時間を求めて」の部分を執筆させていただきました。文体やアプローチは少し違いますが、問題意識は同じところにあります。

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