「やはり野に置け」ない人間の悲しさ | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

 

 

ウチの部屋に季節を運んでくれる野草たち。

 

本当のことを言えば、

 

「やはり野に置け」

 

ということになるのだろうが、

それをわざわざ家の中に持ち込んでしまうのが

人間の悲しさというものである。

 

昔の人はその悲しさをよく知っていたからこそ、

自然や神仏に手を合わせずにはいられなかったのだろう。

 

そうしなければ生きられない自分への懺悔と、

そのような存在をも生かしてくれている

自然への感謝がそこにはある。

 

おのずからの自然とはかけ離れた、

「有り難い」存在としての人間。

 

にもかかわらず、

その存在を許してくれている

自然の「有り難さ」。

 

「ありがとう」という言葉は、

そのような「生かされた存在」としての自分を

思い出させてくれる言葉でもある。

 

仏教でいう「南無阿弥陀仏」も、

「阿弥陀さまに全てお任せいたします」

というような意味に受け取るならば、

それは人間を「生かされた存在」へと置くものである。

 

自然が生活の中から失われると、

そのような「ありがたさ」は忘れられる。

 

都会に「祈りの場」が少ないのは、

そのことと無関係ではない。

 

昔の家には仏壇と神棚の両方があったが、

これが今後復活してくるような気がしている。

 

それは別に何かの宗教に入りたいということではなく、

自然や死者とつながりたいという思いからである。

 

なぜそうなるかと聞かれたら困るけれど(笑)、

それはけっこう「自然なこと」のような気がする。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村