ウチの部屋に季節を運んでくれる野草たち。
本当のことを言えば、
「やはり野に置け」
ということになるのだろうが、
それをわざわざ家の中に持ち込んでしまうのが
人間の悲しさというものである。
昔の人はその悲しさをよく知っていたからこそ、
自然や神仏に手を合わせずにはいられなかったのだろう。
そうしなければ生きられない自分への懺悔と、
そのような存在をも生かしてくれている
自然への感謝がそこにはある。
おのずからの自然とはかけ離れた、
「有り難い」存在としての人間。
にもかかわらず、
その存在を許してくれている
自然の「有り難さ」。
「ありがとう」という言葉は、
そのような「生かされた存在」としての自分を
思い出させてくれる言葉でもある。
仏教でいう「南無阿弥陀仏」も、
「阿弥陀さまに全てお任せいたします」
というような意味に受け取るならば、
それは人間を「生かされた存在」へと置くものである。
自然が生活の中から失われると、
そのような「ありがたさ」は忘れられる。
都会に「祈りの場」が少ないのは、
そのことと無関係ではない。
昔の家には仏壇と神棚の両方があったが、
これが今後復活してくるような気がしている。
それは別に何かの宗教に入りたいということではなく、
自然や死者とつながりたいという思いからである。
なぜそうなるかと聞かれたら困るけれど(笑)、
それはけっこう「自然なこと」のような気がする。