『孤独論』と『感じるままに生きなさい』の共通点 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

連続して購入した二冊の新刊、

 

・田中慎弥『孤独論 逃げよ、生きよ』徳間書店(2017年)

・星野文紘『感じるままに生きなさい 山伏の流儀』さくら舎(2017年)

 

を読み終えた。

 

 

 

 

以前のブログで書いたように、

僕の中では「人間性」というテーマで

つながっているように見えた二冊。

 

これについては思っていた通りだったが、

さらにもう少し付け加えれば、

この二冊のテーマは「人間性の回復」

だと言ったほうがより正確かもしれない。

 

ではここで述べられている「人間性」とは何か。

 

それは「自然性」のことだろう。

 

人間の中にある「自然性の回復」、

それこそが「人間性の回復」である、と。

この文脈において、二冊の内容は一致している。

 

しかし明治以降の近代化の時代においては、

これはむしろ逆の文脈で語られてきたように思う。

 

「自然性」を「知性」によって克服し、

それを制御・支配することが、

「人間性」を高めることである、と。

 

このような「知性」の追求によって、

人間の「自然性」は抑圧され、

いまや窒息寸前にまで追いつめられている。

 

しかし、「いのち」としての人間の本質は、

「知性」ではなく「自然性」のほうにあるのではないか。

 

そしてこのことはすでに

多くの人々によって指摘されてきた。

 

たとえばフランスの哲学者ベルクソンは、

「知性は生命にたいする本性的な無理解を特徴とする」

と言い、さらに次のようなことを述べている。

 

生命は絶えざる創造の連続であり、

知性で捉えることはできない。

 

それを捉えられるのは直観である

(ここでの「直観」は

「自然性」と読み替えてよいだろう)。

 

そしてその直観は「ある意味で生命そのもの」であるが、

現実には直観はほぼ完全に知性の犠牲になっている、と。

 

これが書かれたのは1907年に出版された

『創造的進化』の中においてである。

 

今回読んだ二冊が目指しているのは、

まさにその知性の犠牲になっている

「直観=自然性」の解放であろう。

 

作家の田中慎弥さんは、

「気の進まないことには手を出しませんでした」と言い、

「ある種の身勝手さ、そして頑さを失わないこと」

が重要だと言った。

 

山伏の星野文紘さんは、

「魂のままに、気になることをやる」

「頭で決めないこと。感じたことからやりなさい」

と言った。

 

これらはまさに、

人間の「内なる自然性」を

取り戻すことにほかならない。

 

先述したベルクソンは、

最終的には知性と直観の融合に希望を托していたが、

現状においては依然として

「直観は知性の犠牲になっている」

と言わざるを得ないだろう。

 

そうでなければ、

今回読んだ二冊のような本が

出版されることもなかったはずである。

 

表紙の雰囲気は全く違うけれど、

「自然性の回復=人間性の回復」

という点において共通するこの二冊。

 

いまの自分や社会のあり方に

行き詰まりを感じている人にとっては、

生き方を変えるきっかけになり得る本だと思います。

 

 

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