星野文紘『感じるままに生きなさい 山伏の流儀』さくら舎(2017年) | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

 

 

実に僭越ながら、

拙著『考えない論』を彷彿とさせる内容で、

終始ウンウンとうなずきながら読了した。

 

「魂のまにまに、気になることをやる。

 そうすると自分の魂がすごくよろこんで、強くなっていく。

 頭で決めないこと。感じたことからやりなさい。

 魂のまにまにを大事にして」(164頁)

 

これはもう大きな紙に毛筆で書き写して、

部屋の壁に貼っておきたいところである。

 

そして本書で特に印象的なのは、

羽黒修験にある「うけたもう」という言葉。

修験道では、山に入ったら全て自然から学ぶ。

 

まず全てを受け入れる。

そこには自然に対する「信頼」があるのだろうと言う。

 

この「うけたもう」は、

以前に星野さんのお話を直接聞いた時に教えてもらって、

日常生活の中でも折々に思い出してつぶやいている。

 

「うけたもう」。

 

バカボンのパパに言わせれば

「これでいいのだ」となるのだろう。

 

「予定も何もなし。

 みんなどこに行くのか知らない。

 ただ『うけたもう』という答えでいいの」

 

これなどはまさに人生の神髄である。

 

もちろんそれを完全に実践することができないのが

悲しき「人間」という存在なのだが、

その「悲しさ」を自覚するところに、

人間が人間として生きていくことの

深みもまたあるのだろう。

 

「気になるって、頭がさせるわけじゃない。

 気になるのは、魂がさせるわけだから。

 ……その気になることをどんどんやればいいんだ。

 そうしたら、魂がよろこぶ。

 ところが気になることがあっても、それを止めるのは頭。

 何やかやとやらない、やれない理由が出てくるんだ。

 それは頭がそうさせているんだ。

 そこでやめずに、気になることをどんどんやるんだよ」

(92-93頁)

 

魂とは、いわば「人間の内なる自然性」であり、

ここで語られているのはその

「内なる自然性」への「信頼」ではないだろうか。

 

山という自然への信頼を通して、

自己の内側にある自然性への信頼に至る。

 

そしてそれらは別々のものではなく、

一体のものであったことに気づく。

 

そうすると、

「うけたもう」という生き方が

受動的なものではなく、

主体的なものとしてあらわれてくる。

 

そこには「自力」と「他力」の区別のない、

「自ずから然り」の世界がある。

 

装丁の写真の青空のように、

さわやかさと深みを兼ね備えながら、

実に読む人を自由な気持ちにさせてくれる一冊である。

 

 

 

 

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