「すべてを受け入れる」という主体性 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

仏教の話になるとよく話題にのぼる

自力と他力の関係について。

 

「こころの時代」という番組で、

あるお坊さんが、

 

「<すべてを受け入れるんだ>という主体性」

 

というような話をしていた。

 

単純に「全てを受け入れる」と言うと、

それは「主体性の放棄」として

受け取られることが多い。

 

しかし「全てを受け入れる」と決めるところに、

すでに主体性があるというのだ。

 

ここからは僕の解釈になるが、

「全てを受け入れる」と決めるに至るまでには、

人生のさまざまなプロセスがあり、

それは必ずしも自分で用意したものではない。

 

その意味で絶対的な自己決定など存在せず、

「全てを受け入れる」という主体的な決定さえも、

どこかで何かを受け入れた結果にすぎない。

 

というようなことを書いている僕も、

決して主体的にこれを書いているのではなく、

これまでの人生の文脈において、

オノズカラ書かされているわけである。

 

しかし、それはもはや自分の意志と一体になり、

「自ら(ミズカラ)」と「自ずから(オノズカラ)」は

その境界を失っていく。

 

そう言えば、漫画「北斗の拳」の中で

僕の一番好きなキャラクターは、

「雲のジュウザ」だった。

 

「俺はあの雲のように自由気ままに生きる」

 

子供の頃、マネして何度も言ったものだ。

 

ジュウザの最後もまた、

ミズカラとオノズカラの間で、

大切なもののために

自分の命を捧げたのであった。

 

 

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