仏教の話になるとよく話題にのぼる
自力と他力の関係について。
「こころの時代」という番組で、
あるお坊さんが、
「<すべてを受け入れるんだ>という主体性」
というような話をしていた。
単純に「全てを受け入れる」と言うと、
それは「主体性の放棄」として
受け取られることが多い。
しかし「全てを受け入れる」と決めるところに、
すでに主体性があるというのだ。
ここからは僕の解釈になるが、
「全てを受け入れる」と決めるに至るまでには、
人生のさまざまなプロセスがあり、
それは必ずしも自分で用意したものではない。
その意味で絶対的な自己決定など存在せず、
「全てを受け入れる」という主体的な決定さえも、
どこかで何かを受け入れた結果にすぎない。
というようなことを書いている僕も、
決して主体的にこれを書いているのではなく、
これまでの人生の文脈において、
オノズカラ書かされているわけである。
しかし、それはもはや自分の意志と一体になり、
「自ら(ミズカラ)」と「自ずから(オノズカラ)」は
その境界を失っていく。
そう言えば、漫画「北斗の拳」の中で
僕の一番好きなキャラクターは、
「雲のジュウザ」だった。
「俺はあの雲のように自由気ままに生きる」
子供の頃、マネして何度も言ったものだ。
ジュウザの最後もまた、
ミズカラとオノズカラの間で、
大切なもののために
自分の命を捧げたのであった。