植物は本当に動かないのか? | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
動物は「動く」。
植物は「動かない」。

これが、動物と植物の
大きな違いだと言われる。

確かにその文字を見ても、

動物=動く物
植物=植わってる物

になっている。

しかし植物は本当に
動かないのだろうか。

もちろんそんなことはない。

ひまわりが太陽の方向に
顔を向けるのは有名な話だし、
「花が咲く」とか「葉が茂る」とか
「根を伸ばす」なんていうのも、
「動き」のひとつである。

しかしそれを人間はなかなか
「動き」として認識することはできない。

なぜか。

それはたぶん単純な話で、
動きがあまりに「遅い」からだろう。

その証拠に、
早送りで見る植物の生長の姿は
ものすごくアグレッシブだ。

つまり、動きに要する時間が
人間と全く違うのである。

「植物は動かない説」の考え方のひとつに、
「動物は主体的に(自分の意志で)動くけれど、
 植物は自分の意志で動いてるわけではない」
というのがあり得るだろう。

しかし植物の早送り映像を見ていると、
僕なんかはそこに「意志のようなもの」
を感じてしまう。

そう考えると、
時間というのは実に不思議だなあと思う。

時間というものがなければ、
人間はものごとを認識することは
できないだろう。

時間がないということは、
変化がないということなのだから。

一方で、その変化の時間幅が長過ぎても、
人間はそれを認識することができない。

植物の変化を「動き」として
認識することができないように。

これはいろんなことに言える。

例えば地理の授業なんかで、

「もともと世界の大陸は
 ひとまとまりのパンゲア大陸で、
 それが長い時間をかけて分かれたのが
 いまの大陸の姿です」

なんていう話を聞く。

これを聞くといかにも
長い時間を俯瞰することによって
大陸の「動き」を認識できたような気になるが、
ここで油断してはいけない(笑)

実は地球の歴史においては、
大陸は何度も「分裂」と「合体」を
繰り返しているらしいのだ。

最初の「パンゲア大陸→分裂」
からイメージされるのは、
直線的で不可逆的な時間だ。

しかし後者の
「分裂→合体→分裂→合体」
からイメージされるのは、
むしろ円環的な繰り返される
時間ではないだろうか。

人間の「認識」を可能にするのは「時間」だが、
人間の「認識」を妨げるのもまた「時間」である。

こんなことを考えるとき
いつも思い浮かぶのが、
哲学者ショーペンハウエルによる
次の言葉である。

「千年前もちょうどこんな風に
 ほかの人達が坐っていた、
 それは全く同じ風であり同じ人達であった。
 千年後にもやはり同じ光景が
 繰り返されることであろう。
 この事実を我々に気づかせないように
 している仕掛けが、時間なのである」

ショウペンハウエル著、斎藤信治訳
 『自殺について 他四篇』岩波文庫、2008年


それはさておき、
植物の話に戻ろう。

「植物は動かないと言うけれど、
 早送りして時間幅を短縮して見れば
 めっちゃ動いてるじゃないか」

という話であった(たぶん)。

「でも、その場で動くことはあっても、
 遠くまで移動することはないじゃないか」

と言う人もいるかもしれないが、
これもそうとは言い切れない。

タンポポの綿毛はどこまでも飛んで行くし、
ひっつきむし(オナモミとか)なんかも
人間や動物にひっついて
いろんなところに旅だってしまう。

つまり動物も植物も「動く」のだが、
その手段と時間幅が全く違うのだろう。

ところで、京都の大原で
築100年の古民家に暮らす
ベニシアさんという女性がいる。

彼女はこんな風なことを言っていた。

「どんなことも
 ゆっくり時間をかけてやると、
 とても楽しく感じられるのです」

そういう風にして見てみると、
植物の「生き方」っていうのは、
実際のところものすごく
充実したものなのかもしれない。


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