【映画】「風の波紋」の余韻 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
先日のブログにも書いた
映画「風の波紋」。

余韻の残る映画で、
見てから数日たった今でも、
思い返してはふといろんなことに
気づいたりすることがある。

たとえば、
会社なんかだと

「あいつは仕事ができる」
「あいつは全然使えない」

などという形で比較され、
まるでそれ自体が「その人の価値」
とされてしまったりする。

確かに会社から見れば、
月に1000万円の売上の人と、
月に100万円の売上の人とでは、
どちらが価値があるかは一目瞭然だろう。

しかしそのような価値付けは、
人間の能力の一面を切り取ることによって
はじめて可能となる。

だが人間はそもそもトータルな存在であって、
「月の売上」で価値が決まるわけがない。

単純な話をすれば、
ものすごく売上を上げるけれども
同時に部下を自殺に追い込むような人もいるし、
逆に売上はなくても、
「この人がいるとなんだか安心できるなあ」
という形で氣持ちを支えて
くれるような人もいる。

で、前置きが長くなってしまったが(笑)、
この映画では、「比較しようのない人間」が
描かれているような氣がしたのだ。

もちろんそれぞれ得手不得手、
得意分野はそれぞれ違うのだけれど、
彼らの世界ではそのことだけが
一面的に切り取られることはない。

だからそれぞれの場面では
「教える側」「教えられる側」に
なることはあるけれども、
それはどちら偉いとか、
どちらが価値があるとかじゃなく、
「役割の違い」にすぎない。

もちろん逆に言えば、
そういう面を持つ会社は
人が生きやすい会社なのかもしれない。

しかしそうなると
人事評価とか給与査定とか
やりようがなくなってしまいそうだが(笑)、
しかし人間が「共に生きていく」ということは
そういうことでしかありえない。

利益を追求する上では
そんな面倒なことは放棄して、
会社の求める能力によって比較する方が
はるかに合理的に違いない。

ここに「企業はコミュニティたり得ない」
と言われる理由があるのだろう。

しかし最近は
「ソーシャルビジネス」とか、
「コーオウンド・ビジネス(従業員所有事業)」
といった形で、
事業とコミュニティ形成を両立させようとする
試みも生まれてきている。

そのような取り組みにおいても、
この映画「風の波紋」は、
さまざまなヒントを与えてくれるはずだ。



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