東日本大震災から5年 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
東日本大震災から5年。

あらためて、亡くなられた一人ひとりの
ご冥福をお祈り申し上げます。

震災について書こうとすると、
どうしても筆が途中で止まってしまう。

本当は3月11日に
何か書こうと思っていたのだが、
結局いまになってしまった。

思えば震災直後、
僕らは確かに「言葉を失った」。

それまで毎日何かしら
書き付けられていた僕の手帳も、
空白の日々が続いた。

毎日の課題にしていた
ブログだけは無理矢理に続けたけれど、
それもほとんどは単に「情報発信」
のようなものにすぎなかった。

震災のことを書こうとすると、
その時の感覚が蘇ってくるのかもしれない。

今年もあらゆるメディアで震災特集が組まれ、
それらに接することで当時の感情を
思い出した人も多いと思う。

ある番組で、被災地の男性が
震災から5年の思いを尋ねられ、
次のようなことを言っていた。

「あれから5年たった、という感じはないです。
 また3月11日が来たんだな……という感じ」

そこには、
過ぎ去ってはまた回帰する
「円環の時間」がある。

「時計の時間」は、
直線的に、不可逆的に、同じペースのまま、
前へ前へと進んでゆく。

そこでは「5年」という歳月が
確かに経過しているのだけれど、
人間の「心の時間」はそうはいかない。

大切な人を失ったその時から、
「時間が止まったまま」と言う人もいる。

しかし私たちが生きる現代社会は、
「直線的な時間」への復帰を人々に要求する。

それは時に、災禍の「克服」を促す声として。
あるいは、経済の「発展」を求める声として。

過去の「克服」と、未来の「発展」。
それを前提する「直線的な時間」。

さらにそのスピードが求められる時、
死者や自然とのつながりを断ち切って、
「未来」だけを見据えなければならない。

だが時速300キロで走る
F1カーのドライバーに
周囲を見渡している余裕などないように、
速度は人間の視野を狭くする。

考えてみれば、
そのような視野狭窄を伴う「直線的な時間」が、
今回の原発事故を準備したとも言える。

「直線的な時間」は、
未来の経済成長を全てに優先させる価値観と、
未来の科学技術があらゆる問題を
解決するという「信仰」を生んだ。

その「信仰」に従うならば、重要なのは
「できるだけ早く未来に到達すること」であり、
その過程で犠牲になる
あらゆるものごとは問題にならない。

なぜなら、それらの問題もまた
未来の科学技術によって克服されるのだから。

そうして他者や自然への配慮は失われ、
「排他的な時間」が展開してゆく。

このような「直線的な時間」は、
それぞれ個人の人生においては
「予測のつかない時間」であり、
人々を再び不安の中に投げ込んでゆく。

その不安を「お金」で解消する構造が、
「不安をエネルギーとする社会」としての
資本主義社会を成立させている。

ところで「災害ユートピア」
という言葉があるが、
それを成立させる要素の一つは
「直線的な時間の停止」ではないか。

人間の意識が、
「未来」という抽象的な時間から、
「現在」という具体的な時間へと移行する。

未来への「視野狭窄」から解放され、
自分の居場所と周囲の人々に目をやる。

その時、自分を成立させている
つながりの世界が浮かび上がってくる。

そのつながりの世界に展開しているのが、
「円環の時間」なのだろう。

そこでは死は終焉ではなく、
克服すべきものでもなく、
繰り返される関係の再創造である。

死者は過去に「存在した」のではなく、
いま生きている人との
関係の中に「存在して」いる。

その「存在」をも包み込む社会とは、
一体どういうものなのだろうか。

そのヒントは「未来」ではなく
「過去」にしかない。


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