思い込みの集積とその共有 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
他人が書いた文章を校正していると、
実にいろんな発見がある。

単に文章を読んでいるだけだと、
よくわからないところはスルーしたり、
本当はこっちが間違ってるのに、
文章の方が間違ってると思い込んだりする。

たとえばこのあいだ、
ある文章の中に「ボウリング」
という単語が出てきた。

重い玉を転がして
ピンを倒すアレである。

僕はてっきり、
「〝ボウリング〟じゃなくて
 〝ボーリング〟の間違いだろ!」
と思い込んでいたのだが、
ちょろっと調べてみると、
間違っていたのは僕のほうだった(笑)

玉を転がすのが「ボウリング」で、
地質調査の時とかにやるアレが
「ボーリング」であった。

僕がこれまでの人生で書いてきた
「ボーリング」を全て修正したいところだが、
もはや後の祭りである(笑)

こうした自分のいいかげんさは、
「書き起こし」という作業でもよくわかる。

たとえば、
ICレコーダーなんかに録音された声を
パソコンに打ち込んでいく。

すると、
ついさっき聴いた言葉にもかかわらず、
しょっちゅう間違って
打ち込んでいるわけである。

このぶんでいくと、
僕はどれたけ他人の言葉を
間違って聴き取ってしまっていることか。
そう我が身を振り返らざるを得ない。

「自分とは、誤解の集積」
だと言ったのは糸井重里さんだが、同様に、
「自分とは、思い込みの集積」でもある。

他人から聴いた言葉はもちろん、
自分が確信している考えでさえも、
「まあ、間違ってるかもしれんけどー」
と、どこかで思っておいたほうが
いいのではないか。

だが一方で、その誤解や思い込みも、
それを共有できる関係の中では、
それは確かにひとつの「真理」になり得る。

あんまり長くなると
アレなのでやめておくが(笑)、
ここにこそ、多様なコミュニティが
求められる所以がある。


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