たいていすぐ忘れてしまうものだが、
不思議とそうでないものがまれにある。
「海の上のピアニスト」は、
僕にとってそんな映画のひとつだ。
印象に残っているのは、こんなシーンだ。
ずっと船の上で暮らし、
そこでピアノを弾き続けてきた彼が、
陸の世界へ降りることを決意する。
彼の腕があれば、
都会で成功することは間違いない。
ひととき恋をした
彼女にも会えるかもしれない。
だが彼はタラップを降りたところで、
結局また、船へと引き返すのだった。
そこでのメッセージが
ずっと心にひっかかっている。
うる覚えだが、
こんな内容だった気がする。
「ピアノの鍵盤は有限だからこそ、
無限のメロディを奏でることができる」
すなわち、
人生も同じであるということだろう。
陸に広がる都会には、
無限の可能性(鍵盤)が広がっている。
だがそこで自分らしいメロディを
奏でることはできない。
このメッセージが、
不思議と心に残り続けている。
しかしこのメッセージには、
現代人の生き方に対する強烈な
アンチテーゼが込められている。
現代において人間は、
まるで無限の可能性を秘めた
存在であるかのようにして
生まれてくる。
そして、その無限の可能性の追求を
他者から期待され、自らも期待する。
常に何かを目指し、
それを達成しなたら、
さらによりよい何かを目指す。
つまり人生はいつも
「~への途中」であり、
「これでよし」とはならない。
そこは無限の世界である。
だがそこに
人間の幸福はあるのだろうか。
そうではなく、人間の幸福は、
有限の世界でこそ感じることが
できるのではないか。
人々は「都会」というものに、
「自由な世界」をイメージしてきた。
その自由を担保しているものは何か。
それは貨幣を媒介とした、
他者との関係の稀薄さではないか。
稀薄な関係=無関係的関係の中では、
余計な束縛を受ける必要はない。
そして確かに人間は、
深い関係・親しい関係の中にいるほど、
実は自由を制限されるという側面がある。
そこで困っている人がいたら
無視するわけにもいかないし、
食事の時間だって自由気ままと
いうわけにはいかない。
自分自身の生き方にさえも
口出しされる可能性がある。
だが人間の幸福は、
そこにしかないのではないか。
そこには、「生きる意味」を
自ら探す必要のない世界がある。
いまの日本の社会では、
その「生きる意味」が見出せず
苦しんでいる人が増えているような気がする。
僕たちが取り組むべきは
さらなる経済成長を目指すことではなく、
有限の世界を取り戻すことではないか。
そしてその有限の世界でこそ、
人間の人生は無限のメロディを
奏でることができる。
手の届く場所に
全ての鍵盤がそろっていることが、
演奏者を安心させ、
その力を引き出してくれる。
そういうもののような気がする。

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