神仏との通信手段 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
2月25日の読売新聞の記事に、
こんなものがあった。

公道のポスト95%違法、安全上問題3949本
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150225-00050027-yom-soci

なんだか大層なタイトルだが、
要するに手続き上の問題らしい。

それよりも僕がこの記事の中で
気になったのは、次の数字である。

「全国のポストは約18万5000本」

ポストの数が多いのは予想がつくが、
こうして数字にされると圧巻である。

そのわりにいざ必要な時に限って、
どこにも見つからなくて
困ったりもするのだが(笑)

それはさておき、
このポストの数で驚いている人は
もっと驚かねばならない話がある。

それは、明治初年に
政府が調査した神社の数である。

みなさんどれくらいの数だと
思われるだろうか。

岡田米夫によれば、当時の神社の数は
なんと19万余にものぼったという
(『日本史小百科1 神社』近藤出版社、1977年、42頁)。

つまり現在のポストの数より、
当時の神社の数の方が多かったのである。

しかも、この19万余という数は
神社だけの数字であって、
お寺の数は含まれていない。

もちろん当時は神仏習合的な信仰が
普通に見られたはずだから、
それを明確に分けることはできない。

いずれにせよ、現在のポストの数、
約18万5000本に対し、
明治初年までの神社の数は
それをはるかに上回っていたのである。

ポストが私たち人間同士の
通信手段を支えているとすれば、
神社やお寺は、
神仏や死者、あるいは自然との
通信手段を支えてきたと言えるだろう。

しかもその数たるや
ポストの数をはるかに凌ぐのだから、
その通信がどれだけ身近なものだったか
察しがつこうというものである。

昔の人たちの生活は、
生きている人間だけによって
営まれていたわけではない。

目に見えない神や仏、
先祖や自然の声を聞きながら
営まれていたのである。

現代社会の行き詰まりは、
その「声なき声」に耳を傾けることを
私たちが忘れてしまったときに、
もう始まっていたのかもしれない。


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