『無力』。
「ムリョク」ではなく
「ムリキ」と読む。
著者の五木さんによれば、
「ムリョク」と「ムリキ」では
その意味するところも
全く異なるという。
五木さんは
『他力』
この「他力」と「無力」の関係を
『無力』の中で次のように述べている。
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自力であれ他力であれ、
そのあいだで揺れ動く状態を
否定的にとらえるのではなく、
人間はその二つのあいだを
揺れ動くものであるととらえる。
自分はどちら側なのだ、
と頑張るのではなく、
肩の力を抜いて、
不安定な自分のふらつきを
肯定するのです。
これが「無力」という考えの根本です。
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確かに、「自力」と「他力」は、
突き詰めて考えると
明確に分けることはできない。
五木さんが著書の中で
述べているように、
「よく、
人間は自立しなければいけない、
といいますが、
人間が真っ直ぐ立っていられるのは、
重力という他力によって
支えられているからでしょう」
このような話を屁理屈として
捉える人もいるかもしれないが、
僕からすると世の中は万事、
このような関係の中で
動いているように思われる。
だからこそ、
度々盛り上がる「自己責任論」も、
世の中の実際というものを無視した、
極めて空しいものに感じられる。
さて、それはさておき、
『無力』の中で僕が
「へぇ~」と面白く思ったのは、
五木さんの次の説である。
「宗教というのは、
開祖の死んだ年齢に
関係があるのではないか」
こういう視点には
はじめてお目にかかった。
三十代という若さで磔刑死したキリスト、
六十歳くらいまで生きたムハンマド、
八十歳という長命だったブッダ。
「青春の宗教、壮年の宗教、老年の宗教」
というものがあり、
「開祖でさえも、
到達した年齢なりの
思想というものがある」
という五木さんの考え方は、
実に地に足のついた、
深い人間理解に基づいているように見える。
「もし、キリストが八十歳まで生きて、
ブッダが三十歳ぐらいで死んでいたなら…」
歴史にもしもはないというが、
五木さんのこの問いかけは、
人間の思想がどういうものかを
僕たちに改めて考えさせてくれる。
いわゆる聖人と言われる人でも、
年齢によって思想は変化してゆく。
「ブレない人などいるものか」
五木さんの言葉は、
僕たちのような凡人によりそい、
安心を与えてくれるのである。