緒方正人『常世の舟を漕ぎて―水俣病私史』世織書房、1996年。
水俣病によって、
尊敬する父を亡くした緒方正人さん。
彼もまた同じ病に冒されながら、
国家・行政・企業と闘い続けた。
ついには自ら水俣病の認定申請を取り下げ、
その後の狂いの時を経て、
「チッソというのはもうひとりの自分のこと」
という境地に至った。
まさに菩薩のような人だ。
彼が重視する「個人」とは
近代的な「バラバラの個人」のことではなく、
「自然や共同体と一体となった個人」であり、
それは巨大で無機質な「システム」に対する
「人間」のことを意味している。
現代人は、自らがシステムの中に
取り込まれた存在であることを自覚し、
そのうえでいかに「人間」として生きるかを
常に問い続けなければならない。
ここで問われている
「システム」と「人間」の対立は、
今日の原発の問題に象徴的に表れている。
原子力発電を推進させているのは、
「人が人を人と思わなくなった」
社会の存在にほかならない。
「ここが昔の人たちと今の人たちの
決定的な違いです。
今五○年、百年先のことを考えている
人間が日本に何人おるでしょうか」
緒方さんのこの問いかけは、
僕たち一人ひとりに向けられている。
以下、関心を持った部分の引用です。
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あとから考えると、
あんなふうにして多くの人々が
精神病院に閉じこめられてきたわけです。
でも俺に言わせりゃ、こんな世の中に
狂わんでおれる方がよっぽど恐ろしか。(118頁)
本来なら海に返してやらにゃいかんのです。
しかしそれができん。
できんところにまで、
人間の欲深さが追いつめてしまった。
核廃棄物処理の問題によう似とるですよ。
へたに動かすこともできん。(155頁)
チッソの責任、国家の責任と
言い続ける自分をふと省みて、
「もし自分がチッソや行政の中にいたなら、
やはり彼らと同じことをしていたのではないか」
と問うてみる。すると、この問いを
到底否定しえない自分があるわけです。
それは自分の中にもチッソがいる
ということではないでしょうか。(167頁)
そこで結局俺は、
水俣病事件の責任ということについて
こう結論せざるをえない。
この事件は人間の罪であり、
その本質的責任は人間の存在にある。
そしてこの責任が発生したのは
「人が人を人と思わなくなった時」
だ、と。(167頁)
だから、俺、みんなに言ってやりたいんです。
もうよかけん、帰ってこい、と。
なにもみんな卒業証書をちゃんと
もらって帰ってこなくてもいい。
ごった煮でよかけん、
早よ帰ってこい、と。(176頁)
国家なんていらない。
人間に値段をつけ、
計量化するシステムもいらない。
海や山につらなる
命として生きよう。(200頁)
働き手のいない家では、
もらうばかりで与えることが
できないわけだけど、
それでも別にどうということはなかった。
もちろん、もらう側に感謝の気持ちが
あったからということもあるでしょう。
でもどちらかというと与える方でも、
自分の力でイヲ(魚:引用者注)を
とったというのでなく、
エビスさんのお陰でとらせてもらった
という気持ちが強かったんです。
それをお裾分けしただけのこと。
だから、誰も恩着せがましいことは
言わなかった。(202頁)
よく都会に住んでる知識人なんかが
「自立」とかって言うでしょ。
この辺でそんなこと言ったら、
「おまえ馬鹿じゃなかか」って笑われます。
「わいがひとりでなんばしきるか」。
おてんとう様や人様の世話にならずに
何ができるか、ということです。(202頁)
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緒方正人『常世の舟を漕ぎて―水俣病私史』世織書房、1996年。

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