現在の僕らは、「時間」というものを
時計やカレンダーを見て知るわけだが、
かつての日本人の時間概念が
どのようなものだったのかは
あまり知られていない。
文字が渡来する以前、
あるいはその前後の日本では、
「真暦」という時間の読み方があったという。
これが非常におおらかでいいのだ。
たとえば、年の初めの日は、
現代だったら「1月1日です」と言えばいい。
ところが、「真暦」だと次のようになる。
「天(ソラ)のけしきも、
ほのかに霞の立(タチ)きらひて、
和(ノド)けさのきざしそめ、
柳などももえはじめ、
鶯などもなきそめて、
くさぐさの物の新(アラタ)まりはじまる比を」
(『真暦考』)
もって、年の初めの日とした。
ほとんど詩の世界である。
もちろんこうなると
人や地域によって差異が生まれてくるが、
かつての時間とはそういう差異も含んだ
おおらかなものとして流れたのである。
この「真暦」の見方でいけば、
秋は「来るもの」というより、
「見つけるもの」といった方がしっくりくる。
かつての日本では、「ちいさい秋」は
たしかに「見つけられるもの」だったのだ。
人間には、こういうおおらかな時間の方が
合っているような気がするけれども、
そういう時間を創造するちからを
回復することは、はたして可能だろうか。