時間についての十二章―哲学における時間の問題 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
時間についての十二章―哲学における時間の問題/内山 節

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タイトルのとおり時間についての本だが、
著者は読者の「読む速度」についても
意識しながら文章を構成しているように見える。
ときどきあえて「間」を入れながら、
ゆらぎを生み出す。
そうすることで、より著者の世界観を
感覚的にも伝えることに
成功しているのではないだろうか。

人間が共同体から離れ
固有の時間を持つことでそれを
切り売りできるようになったという
著者の主張は、自殺の問題ともつながる。
固有の時間を持つことは、一方で
他者とのつながりの喪失でもある。

「近代社会は長い時間を
 支えるシステムを失なっている」ことは、
原発の問題にも象徴的に現れている。
「先祖の植えた木を自分が切り、
 自分も子孫のために木を植える」
というような時間世界が失われたとき、
自分の寿命以上の時間に対する
イマジネーションを、人は失ったのだろうか。
 
いまにわかに注目されている
「ナラティブ」という概念は、
こうしたイマジネーションを「物語」
という形で取り戻そうとする人々の意識が
生み出したものなのかもしれない。

以下引用です。


村の時間は、ときに荒々しく、ときに漂うように流れている。均一に流れゆく直線的な時間が都市を支配しているとすれば、ここにはゆらぎゆく時間が成立しているのではなかったか。あるいは都市では客観的な時間が人間を管理しているのに対して、村の時間は村人の営みとの関係のなかにつくられていた。(p13)

そして人間自身も、生の世界から死の世界へ、そして再び生の世界へと回帰する大きな円環運動のなかに存在している。(p30)

存在とは関係をとおしてつくられている。(p33)

生の時間と死の時間が連続して流れていくのではない。生の時間からみれば死の時間は断絶である。そして「時」の流れからみれば、その断絶された時間は「間」としてあらわれる。生の「時」にとって死の時間とは生の「間」である。/それは生と死のことにかぎらず、季節のなかでも、一日のなかでもあらわれてくる。(p38-39)

すなわちそれは循環する時間世界のなかでの森づくりであった。先祖の植えた木を自分が切り、自分も子孫のために木を植える。山の暮らしは、そうやって継承されてきた。(p66)

関係のなかに存在する時間は、その関係が維持されているかぎり持続される。(p111)

私はそれを古典経済学と古典社会思想のつくりだした幻想だと考えた。むしろ逆に市民社会の関係性が「個」という固有性をもつくりだしているのであり、私たちの目標は「個」の確立ではなく、関係性の改革だったのではなかったか。(p132)

私には、自分の労働の価値を自己確認しなければならなくなった時代そのもののなかに、現代の労働の問題性があるように思える。(p229)

村人が自然や村の共同社会と関係していくとき時間も成立している、というような伝統的な山里の時間のもとでは、時間は村人一人一人の手に分解されてはいない。ここでは関係とともに時間があり、時間とともに関係がある。そしてそのような時間は、けっして切り売りできないのである。この時間世界のなかに村人は「仕事」を成立させた。/ところが、「稼ぎ」の時間は切り売りすることができる。それは各自の固有な時間であり、それ故にそれを売ることができるのである。(p234-235)

自由、それはさまざまな関係とともに成立する多元的な時間世界を保証することのできる社会がつくりだすものであろう。なぜなら時間が平準化された社会では、人間の時間的な存在もまた平準化され、存在が何者にも拘束されないような自由は成立しようもないからである。/そして時間が平準化され、客観化された秩序ではなくなるとき、社会は単一的な構造体であることを放棄しなければならなくなるであろう。(p264)

近代社会は長い時間を支えるシステムを失なっている。短い時間しか責任を負えなくなった社会と、長い時間を必要とする森の物語、その不調和が森の荒廃の基礎にはある。/とすると現代の社会とは何だろうかと私は思った。伝統社会では普通にできていたことが、いまの社会では不可能なのである。(p271-272)

すなわち私がとらえようとしたものは、主体との関係のなかにその秩序をつくりだすものとしての時間であった。関係的時間として時間は存在する。ただし私は、「主体との関係」というときの主体もまた、すでに述べたように、固有の主体としてはとらえていない。私にとって主体とは、それもまた関係性として成立する。(p283)