祝島と『戦争という仕事』 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
いま手もとに、内山節氏の
『戦争という仕事』という本がある。

祝島からの実況中継を見ていて、
この本に書かれていることと重なるものを感じた。

以下、引用である。

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私は、人間的に生きることと、
人間的に働くこととは一体のものだと考えてきた。
もちろん、ここでいう「働く」とは、
市場経済とかかわる労働だけではなく、
家庭での仕事も、地域や自然を守る仕事なども
幅広くふくまれるが、
誇りをもって人間的に働くことと、
誇り高く生きることとは、
強い結びつきを持っている、と。

そして、誇り高く人間的に働くためには、
自分の労働がはたしている役割を自分で判断し、
労働のあり方も自分で工夫できる、つまり、
判断し考える部分と具体的な作業の部分とが、
自分たちの手のなかにある必要性があるだろう。
それぞれの人々が自分の労働の主人公になれなければ、
労働に誇りを持つことはできようもない。

ところが近代国家における軍人という仕事は、
この可能性を閉じている。
自分で判断してはならず、
仕事は命令に従うかたちでしか成立しない。

もっともこのように述べれば、
次のような反論にあうかもしれない。
それは、軍人もまた自分の仕事に
誇りを持っているという反論である。
だが軍人としての誇りは、
国家や政治が正しい判断をしているという
前提がなければ成立しない。
正しい判断にもとづいて下された命令に
従うという前提があってはじめて、
正しいことを実行しているという
仕事の誇りは生まれるはずである。

ところが、歴史を振り返れば、
国家や政治が誤った判断をした例は、
枚挙にいとまがないほどある。
とすると、「戦争という仕事」は、
国家や政治はつねに正しい判断を下しているという
虚構を成立させることによって、
「虚構の労働の誇り」を生みだすことになる。

この構図は、現代の労働の世界と
共通性を持ってはいないだろうか。
企業は正しい活動をしているという「虚構」、
役所や組織は正しい活動をしているという「虚構」、
この「虚構」があってこそ、私たちはその命令の下で
働くことに誇りを感じることができる。

この視点に立つかぎり、
「戦争という仕事」は
現代における特殊なものではなく、
今日の仕事の世界を象徴している。
だから私は、戦争を、
そこでおこなわれている仕事とは何か、
という視線で考察してみたい。
なぜなら、戦争という犯罪のなかに、
現代の病理が隠されていると思うからである。

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