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生と死について、悲観的なような、楽観的なような、
不思議な読後感を抱かせる本書。
知性の万能性を否定し、
幸福な人生を否定し、死を肯定する。
ショウペンハウエルの主著である
『意志と表象としての世界』を読んでから、
もう一度読み直してみたい。
満足度
★★★★☆
【引用メモ】
「君が死んだ後には、君が生まれる前に
君があったところのものに、君はなることだろう。」(p6)
よし我々が如何なる時に生きているにしろ、
いつでも我々は我々の意識とともに時間の中心に
立っているのであって、決してその末端にあるのではない。
そこからして、誰でもが無限な時間全体の
不動の中心を自分自身のうちに担っている
ものであることが、推量せられえよう。(p12)
死は我々にとって全く新しい見慣れぬ状態への
移行と看做さるべきものではなく、
むしろそれはもともと我々自身のものであった
根源的状態への復帰にほかならぬものと
考えらるべきなのである、—人生とはかかる根源的状態の
ひとつの小さなエピソードにすぎなかった。(p14)
死とともに意識はたしかに消滅してしまうのである。
これに反して、それまで意識を生み出してきていた
ところのそのものは決して消滅することはない。
一体意識は直接には知性にもとづいているのであるが、
その知性はまた生理的過程にもとづいているのである。(p15)
「どうして貴方は生ある者が過ぎ去り易いからといって
歎いておられるのか。もしも私の前に生きていた私の同類の
すべてが死んでしまわなかったとしたら、どうして私は
こうして生きていることができたでありましょうか」(p20)
千年前もちょうどこんな風にほかの人達が坐っていた、
それは全く同じ風であり同じ人達であった。
千年後にもやはり同じ光景が繰り返されることであろう。
この事実を我々に気づかせないようにしている
仕掛けが、時間なのである。(p20)
しかしそれは君の生涯は時間のうちにありながら、
君の不滅性は永遠のうちにある、
ということのためにほかならないのだ。(p27)
現在を享楽すること、そしてそういう享楽を
人生の目的とすること、これが最高の智慧である。
なぜなら、まことに現在だけが実在的なものなので、
他の一切は虚妄にすぎないのだから。
けれどもひとびとはまた同じようにそれを
最高の愚鈍と名づけることもできよう。(p35)
それにしても、動物と人間の世界にかくも
大袈裟で複雑で休みのない運動を惹き起しかつは
それを輪転し続けているゆえんのものが、
飢餓と性欲という二つの単純なばね仕掛であろうとは、
まことに驚嘆のほかはない。(p36)
何かを獲得するというのが第一の課題で、
それが獲得された後に、その獲得されたものを
それと感じないようにするというのが第二の課題なのである。
何故というに、もしそうしないと、
それがひとつの重荷となるからである。(p39)
我々は物自体に対立する単なる現象にすぎないということは、
栄養として絶えず繰返し要求されてくるところの
物質の普段の新陳代謝が、我々の現存在の不可欠条件である
という事実によって、証明され例示され直観化されている。(p44)
もしも我々が何かに気づくことがあるとすれば、
それは即ち我々の意志通りにいっていないことがある証拠で、
何らかの障碍につきあたっているに相違ないのである。(p47)
文明の最低の段階を示している遊牧の生活は、
文明の最高の段階において、普遍化した漫遊の
生活となって再び現れてくる。前者は困窮から、
後者は退屈から、生れてきたのである。(p54)
動物の方が我々よりも遥かに多く単なる現存在のうちに
満足を見出している。植物にいたっては徹頭徹尾そうである。
人間の場合はその愚鈍さの度に応じてそうである。(p55)
動物に特有な現在への全面的没入という
ちょうどこのことが、我々が我々の家畜からえている
喜びの相当大きな部分をかたちづくっている。
動物は現在の権化である、そしてそれは我々に
煩らいから解放された澄み切った時間というものの
価値を或る程度まで感じさせてくれるのである、
—我々は大抵我々の思考のためにこういう時間を
通り過ごしてなおざりにしているのであるが。(p56)
意志の抑圧も苦痛として感ぜられるためには、
認識がそれにともなうことが必要なのである。
但しこの認識は、それ自体においては、
一切の苦痛に無縁のものである。(p58)
我々がちょうどいまそれに対して
憤慨を感じているその欠点もまた
実は我々の身についているものなのであり、
ただそれがちょうどいま我々のもとには
現れていないというだけの理由で、
他人のことを憤慨しているにすぎない。(p71)
私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、
一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者達だけである。
ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する
何らの禁令も、否それを決定的に否認するような
何らの言葉さえも見出されないのであるから、
いよいよもってこれは奇怪である。(p73)
即ち並みはずれて激烈な精神的苦悩に
責めさいなまれている人間の眼には、
自殺と結びつけられている肉体的苦痛などは
全くもののかずでもないのである。(p80)
自分以外の現象のうちにも自分自身を
再認識するというちょうどそのことからして、
すでに私がしばしば立証してきたように、
まず最初に正義と人間愛とが生れてくる。
そして最後に、そこからして
意志の放棄へと導かれるのである。(p89)
同じような志操を抱き同じような風に
諦念している人達を目撃することによって、
彼らはその決意を強められまた慰めを与えられる。
それにまた或る限られた範囲内での共同生活の
交わりは人間の本性に即したものなのであり、
多くの困難な窮乏のなかにおける
一種無邪気な気晴らしである。(p93)
自分の永遠の救済のことを本当に真剣に考えた人達は、
もしも運命が彼らに貧困を拒んで彼らを富裕のなかに
生みおとした場合には、自ら進んで貧困を選んだのである。(p95)