間部詮勝論~老中就任のころ④~ | 鯖江市まなべの館公式ブログ

鯖江市まなべの館公式ブログ

福井県鯖江市にあります「鯖江市まなべの館」の公式ブログです。催しの情報などをお届けします。

 間部詮勝論の「老中就任のころ」も4回目となり、大きな山場を迎えました。幕府から下賜された「築城費5千両」はその後どうなったかというのが本日のテーマです。


 その前に、よくある質問ですが、「5千両って今の金額にしたらどれくらいか?」というのがあります。

 

 難しい質問です・・・。

 

 何ゆえ難しいかといえば、江戸時代の貨幣価値はその時々の相場によって変動し一定していないからです。


 最近の研究ですが、文化・文政期における一両は、12万8000円余とする説があります。とすれば、5千両は6億4千万円になります。この金額が多いか少ないか、色々見方はあると思います。しかし、幕末期鯖江藩の年間収入が1万9千両余であったことをみれば、5千両というのは決して少なくない金額ではないでしょうか。


 ところで、その5千両ですが、詮勝さんが老中になった天保11年5月に将軍家慶から与えられることになりました。領収書らしきものも発見されました。5千両もの大金は、江戸城蓮池御金蔵(読:えどじょうはすいけごきんぞう 江戸城の金庫)から鯖江藩江戸屋敷に運ばれています。詮勝さんがこれを見分していますが、どんな気持ちでこの5千両をながめたんでしょうかね。


 その後、5千両は鯖江に送金されたものと思われます。その方法は多分為替送金です。直接鯖江に送金されたか、福井の為替商に送金されたか、それとも一寸複雑ですが京都・大阪あたりに一旦送金してそこから鯖江におくるという方法だったのかもしれません。

鯖江についた5千両をどうするかという問題ですが、鯖江藩首脳は、「御築城御貸付金」とし、領内の村々に貸し与えることに決した、という見方があります。当時は、天保の飢饉による災害が悲惨で、多くの農民が苦しんでいました。5千両を貸すことは、その救済策でもあったわけです。  



まなちゃんとちかちゃん-天保小判  天保小判金 

                              (1837~1858)                              ↑これが5000枚で5千両です



続 次回は6月9日の予定です。