では、いよいよ本題に入ります。
①では死後の49日の大切なこと
→ これは死んでからの内容ですのでいまは心得ておくだけでOKです。
②では死ぬ直前の49日についての大切なこと
→ 死ぬ直前の期間の最期の人生清算のチャンスについてお話しました。
亡くなっていく他者へのアプローチはできても肝心な自分の死期は察知できないのでいつその大切な期間が訪れてしまうのかわからずに地上を去ることとなります。
③ではどうしたらよいのか?
→この記事でお話したいと思います。
私は脊髄小脳変性症を罹患して10年になります。
睡眠時の無呼吸でいつ死ぬかわかりませんし
(とかいって、長らくはばかったらごめんなさい)
身体の痛みと不自由さで、できることがとても限られています。
そうすると自然と毎日が②の最期の49日のようになります。
もしあなたが今日1日で死ぬと決まっていたら
何をしますか?
日常で無意識に踏んでいるブレーキ
・もう少しお金の余裕ができたらやろう
・私がそんなことしたら差し出がましい、おこがましいかな?
・私がこれをやったら、親、上司、先生、友達、恋人などが面白く思わないだろうな
・いまの生活パターンを変えるのは面倒だからもう少し先にやろう
もしあなたに明日という日が無かったら、やらなかったことを後悔しませんか?
何をやめますか?
日常で当たり前だと思って反射的にやってしまう癖
・揉めるのが嫌だから本音をいわずつい言葉を飲んでしまう
・私がやらなきゃひっちゃかめっちゃかなのでどんなに体がしんどくても家事をこなす
・悪口や愚痴を聞かされるのは苦痛だけど断れずに時間を奪われがち
・頼られたら断れない
・まわりより優っていると疎まれるので自分の能力を隠しがち
もしあなたの人生が今日で最期だったら、自分の時間とエネルギーを他人に捧げますか?
脳の構造による反射的行動や
集団生活の共生社会に生きる上での安全策として
「あなたの性格・生活態度」というものは
慣れたパターンの繰り返しになってしまいがちです。
ですので「今日が人生最後の日」と決めると
視点が変わり、見え方も変わってきます。
明日があるから、お金を使うと未来にお金に困る恐怖がわきます。
明日があるから、自分の時間、人生をちょっと他人に明け渡しても惜しくない気がします。
でも「今日が人生最後の日」となると
明日がないなら、一番使いたいことにお金を使って死のう!
明日がないなら、自分の一番したいことだけをやろう!
と不安や遠慮が吹き飛んで自分自身を生きる選択となっていきます。
私たちは共生社会のルールの中で
自分本位に生きることを悪いことのように教育されてきた面があると思います。
他人を害する、貶めるようなエゴのことではなくて
本当に自分自身を大切に生きるということが私たちが肉体を持って生まれて来た皆さんの共通の課題であると思います。
明日の心配や過去の後悔、他者への遠慮や責任感・罪悪感のない状態
ニュートラルに明け渡した状態
「なかいま」で今日を生きることになるかと。
そしてそのことにはもうひとつ利点があります。
願望実現などのオーダーは、実は「スープにして叶えてくれる」と感じています。
例えば私が「歩行困難が治って美術館や自然豊かな公園を散策したい!」とオーダーしたとします。
スープの具は、
・歩行困難
・治りたい
・美術館や自然公園
・歩き回りたい
美術館や公園の側にある治りそうな病院を探して歩行困難な状態で歩き回る
というような原材料に応じた変な叶い方となってしまう可能性もあります。
ですからスープの具は何だ?
ということがとても大事になってきます。
毎日を「なかいま」な状態で生きていきますと
不安や余計な心配、叶い方の条件付けといった出汁を取るときの「灰汁」が濃しとられて澄んだクリアーなスープになっていくんですね。
毎日が終活、毎日がなかいま、ご自身を生きる、という体験をなさってみてください。