2枚目の自分用セーターを編みました。

 

 

いただいたのは真っ青な並太毛糸。

 

 

 

RIKAさんのタートルネックセーターに挑戦。

 

 

RIKAさんは細いモヘア調の毛糸を

10号の太い鍵針でザックリ編まれたので

少ない玉数で編める 春秋向けのレーシイなセーターです。

 

私は並太の濃い原色毛糸を8号針で編んだので12玉使用し

ずっしりと重たいセーターに仕上がりました。

裾や袖口のシェルステッチでややフレアの7分袖です。

 

 

 

完成着用画像

 

 

 

このところ なぜ編み物ばかりしていたかというと

いただいた毛糸はすべて 一昨年亡くなった

母方の伯母(Mさん)のものだったのです。

 

 

祖父は国鉄に勤めており、

祖母は最高裁の裁判官のお宅に奉公にあがっており、

結婚して最初に生まれた子がMさんでした。

 

戦後のヤミ米騒動で国鉄を辞め、親戚の牧場で働いていましたが

7人の子供を養うのは大変でした。
Mさんは中学校を主席で卒業し、当時高給であった某時計会社に就職します。

その後Mさんの縁故で兄弟7人中5人がその会社に就職します。

 

大卒の男性と社内恋愛をして求婚されます。

ところが「大卒と中卒なんてお門違いだ。やめなさい!」

母親の大反対で結婚を許してもらえませんでした。

その後独身を貫き、家に給料のほとんどを入れ、家族を養いました。

 

随分経って 亡くなった祖母(Mさんの母)の霊と対話をした時に

「あの時はとても言えなかった。

 大黒柱として家族を養ってもらわなければ食べていけなかった。」

祖父母がなくなった後、2世帯で住んでいた長男夫婦に家を出され

独身の妹と公団住まいでした。

 

家を出てからもずっと

何かと姪っ子甥っ子の経済的援助をしてくださいました。

我が家が酷く貧乏な上、父が障害者でしたので

夏休みの宿題ができるよう旅行に連れて行ってもらい

クリスマスにはケーキやご馳走を持ってお祝いに来てくれました。

 

私の実母が授業参観、運動会、文化祭等、一切見に来ない人だったので

祭日に行う運動会などは必ず参観に来てくれました。

 

Mさんが肺炎で危篤状態の時、呼ばれたのですが

私は脊髄小脳変性症でほぼ寝たきり状態でした。

会えずに亡くなり、葬儀も参列できませんでした。

 

随分前に公団住宅の退去時に荷物を整理して

母が大量に引き取った伯母の毛糸をパラパラと持ってきたのです。

私も体が上手く利かなくなって できることは少ないですが

伯母への感謝と 思い出を思い起こして編み物をする時間が

せめてもの供養になるのではないかと思いました。

いただいたまとまった量のある毛糸は一段落つきました。

想いが届きます様にラブラブラブラブラブラブ