闘病ふりかえり⑦~生き延びるために「神経ブロック、放射線」 | manamamaのブログ~膵臓ガンの旦那さんの闘病記

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末期の膵臓ガンになった旦那さんの闘病記

痛みがひどくなってきたのは、やはりガンの勢いが増してきた3月中旬ごろ。

 

不意にくる 「ギューン!!」 とした痛みで思わず涙を流していることもありました。

 

痛くて泣けてくるって、どんなだろう。想像しただけで苦しくなります・・・

 

オキシコンチンは早い段階(1月くらい)から飲んでいましたが、それでもレスキューのオキノームは欠かせませんでした。

 

痛みがあるとどうしても、病気の進行を意識せざるを得なくて、気持ちも落ち込んでしまいます。

 

何故か、原発から離れた肛門が痛んだり、尿道が痛んだり、脇腹がベルト状に痛んだり・・・

 

痛みで苦しんでいる時は、見ているのも辛かったです。

 

私が仕事から帰ると、ベッドで声を殺して泣いている主人を見たことがあります。

 

抱きしめて励ましたけれど、どんなに怖かっただろうと、今でも胸が締め付けられます。

 

痛み=死の恐怖 だったと思います・・・

 

緩和ケア科では、「神経ブロック」を勧められていました。

 

内臓系の痛みは、これでかなり抑えられるとのことでした。

 

4月にステントを入れた時の入院で、この「神経ブロック」の処置を受けました。

 

脊髄と骨の隙間に、薬剤を入れて麻痺させる?というようなお話でした。

 

この処置をした直後は何故か、痛みが増して、先生も首をかしげてました。

 

結局オキシコンチンを1.5倍くらいに増量して落ち着いていました。

 

それ以降は、あまり痛いと言わなくなりました。

 

かなりのスピードでガンが進行していたにも関わらず、

 

顔をしかめて痛がったり、のたうち回るようなことは最後までありませんでした。

 

だから、この「神経ブロック」は、効果があったと思います。

 

主人の歪んだ顔を見なくて済んだのですから・・・

 

穏やかに最期を迎えられたのは本当に有難いと思っています。

 

 

 

4月末からGWにかけての肺炎が落ち着いたと思ったら、今度はステントが詰まり、入れ替えることになりました。

 

ステントを入れてからたった1か月ほどしか持ちませんでした。

 

この先どうなるんだろう・・・

 

何回も入れ替えなんて 考えただけで大変だな・・・

 

将来どうなるんだろう?

 

そう思ってましたが、そんな心配は結局要りませんでした。

 

それまでに、命が尽きてしまったからです。

 

何回も入れ替えられたならまだよかった・・・と思います。

 

肺炎の後も暫く、胆管炎による熱で入院が長引き、

 

5月も半ばになっていました。

 

主治医から、余命は週単位と告げられ、在宅で最期の時を過ごすことが決まり、

 

いよいよ退院という日の早朝に、主人は大量に吐血しました。

 

洗面台が溢れるほどの血を吐いたそうです。

 

すぐさま検査。輸血。

 

一命はとりとめたものの、退院はまた遠のいてしまいました。

 

衰弱の一途。。。

 

もう 「頑張ろう」 と言えなくなってしまいました。

 

どんなにもがいても、快方へ向かうことはありませんでした。

 

 

出血の原因は、原発の腫瘍が十二指腸を食い破ってきているのではとの見解でした。

 

このままではまた出血の恐れがあり、退院することは難しいとのことで、止血目的で放射線治療を受けることになりました。

 

この放射線治療が終れば、自宅で家族の時間を過ごすという 悲しい最期を迎える予定でした。

 

6月4日、放射線治療。(抗ガン目的ではないので弱めの照射でした)

 

この治療を受けた3時間後から、嘔吐が始まりました。

 

処置直後に食べた昼食のサンドイッチと果物を噴水の様に吐き出しました。

 

この日に食べたお昼ご飯が、最後の食事になりました。

 

この日以降、吐き気が一日中おさまらず、吐き気止めの点滴や座薬で対応しましたが、どうしても胃液が流れていかなくなりました。

 

吐き気との戦いが数日続いたところでもう限界。

 

鼻から胃にチューブを入れて、胃の内容物をバックに戻すことになりました。

 

一日何リットルか溜まっていく、緑の濁った液体。

 

自宅へ帰りたいという思いはまた阻まれました。

 

「放射線治療の副作用がおさまれば、また食べられるようになる」 と この時は信じていましたが、

 

結局胃の流れは止まったままで、食欲が戻ることはありませんでした。

 

鼻から挿入したチューブ・・・

 

常に喉に違和感があり、苦しそうなのは見ていてわかりました。

 

でもそれ以上に吐き気が強くて、どうしてもチューブを抜くことは出来ませんでした。

 

黙って耐えていた主人・・・

 

結局、亡くなるまでこのチューブを抜いてあげることは出来ず、食事もすることはできませんでした。

 

放射線をしたことで胃腸に炎症や血流障害を起こしてしまったのだろうと思います。

 

止血という目的は果たせたかもしれませんが、同時に腸の動きが完全に止まってしまいました。

 

最後の1か月間は、便が一度も出ませんでした。

 

この頃から、腸の壊死が始まっていたと思われます。

 

私達は、そんなことにも気づかず、「いつかまた食べられるようになる」 と信じていました。

 

6月13日。緩和ケア病棟へ。

 

最期の時を過ごすことになりました。

 

 

 

緩和ケアに移ってからしばらくして、主人におそるおそる聞いてみました。

 

「今までした治療の中で、なにか後悔はある??」

 

「断糖」 と答えるかなと思っていたら・・・

 

「放射線治療」 と答えました。

 

「でも、これをしなかったら、また吐血していたかもしれないよね」

 

私がそう言うと、

 

「そうかな?そうなのかなぁ・・・」 まだ少し納得はしていない様子でした。

 

看護師さんは、「やっておいてよかったと思うよ」 といってなぐさめてくれました。

 

これも、結局正解はどっちだったのかわかりません。

 

しなくても吐血しなかったかもしれない。

 

そうすれば家に帰れていたかもしれない。

 

放射線治療は、主人のただ一つの後悔になりました。

 

放射線治療を勧めた私のせいかもしれません。

 

主人を死に追いやったのは私??

 

今でも、後悔が残ります。

 

 

つづく・・・