今日は、久しぶりに朝から結構な雨が降っています。
ぴょん太は、相変わらず目覚め後パッとは起き上がれませんが、
起き上がってしまえば、元気にしています。
今朝も、ぴょん太の方が早く準備ができて、
「まだ~?」と言われてしまいました(-_-;)
今朝は、雨なので、駅まで車で送りました。
「みんな、歩いたり、カッパ着たりして自分で行ってるよ~」
って、心の中で言ってしまいましたが、
いやいや、ついこないだまで、準備するだけで、精一杯やったやん・・・
出かけるまで、すごい葛藤とエネルギー要ったやん・・・
学校まで何度も車で送ってたやん・・・
と、自分で突っ込んでしまいました。
こんなに長い間苦しんできたのに、少し楽になると、すぐ欲張ってしまう(-_-;)
一番しんどかった時の気持ちを、決して忘れてはいけないと思っています。
昨日はお昼間暖かく、お散歩日和でした。
久しぶりに、いつものママ友とウォーキングしました。
そのお友達は、いつも向上心があって、謙虚で、私はとても尊敬しています。
40過ぎてから、ある免許を取得して、子どもたちのために教室を開いています。
また、教室のない日は、発達障害の子どもたちのための施設で、働いてらっしゃいます。
息子さんは、スポーツ強豪高校のサッカー部でレギュラーでした。
(今は引退して、大学受験勉強に励んでらっしゃいます。)
娘さんは、関西では憧れの有名私学。
昨日の、お友達のお悩み・・・
『子どもたちが楽しそうではない・・・』
『生き甲斐を感じられていないように思う・・・』
と、いうようなことでした(・_・;)
娘さんは、希望の学校に見事入学したものの、周りは、上流階級(?)
恐らく、医者、弁護士、政治家、会社社長役員・・・などなどのご家庭が多いと思われ、
何かにつけ、
「〇〇ちゃんのところは、~なんだって~・・・すごくなーい?」
という発言がしょっちゅう出てくるとのこと・・・^^;
お兄ちゃんについては、
サッカーがそれほど上手なのに、
「この程度では、プロになれるわけでもないし、本人が、そこまで好きなわけでもないと思う・・・
本人が、(受験勉強はしているものの)何に打ち込めばよいのか、とても迷っているように感じる・・・」と・・・(・_・;)
私・・・「・・・ (・_・;) ・・・ 普通、思春期ってみんなそんな感じなんじゃないかな~・・・」
それで、お友達やご家族が、傍から見てどれほど恵まれて、幸せな状況にあるのかを、力説しました^^;
日々、それを感じられないなんて、本当にもったいない・・・
そして、改めて、我が家が、『普通』ではないのだなぁ・・・と実感・・・^^;
ただ・・・普通の人々が日々何とも感じていないこと、当たり前に思っていること一つ一つに、
ありがたい・・・幸せだ・・・と感じることができるようになったこと。
『生かされている』ことに感謝できるようになったこと・・・
これは、本当に本当にすごいことなのではないかと、今感じている。
ぴょん太が、朝、目覚めて動き出せること。
ぴょん太が、歩けること、食べれること、好きなことができること。
ぴょん太が、口笛を吹きながら自分で起きてくる朝は、本当に嬉しい気持ちになります。
何より、ぴょん太自身が、長い間自由がきかなかったことで、
(まだ、しんどさは抱えているものの、)いつも、『~したい』・・・という何かしら意欲がある。
また、『動ける』ことを楽しんでいる・・・と感じることができます。
私は、ぴょん太が起立性を発症するまでは、『生きること』に執着はありませんでした。
正直、苦しまなくてよいなら、いつ召されてもよいと思っていました。
心に『生きづらさ』を抱えていたからです。(今もありますが^^;)
けれども、今、本当に、日々、命が与えられている奇跡、生かされている奇跡を強く感じます。
長く元気に生きたい・・・
ぴょん太や主人と長く一緒にいたい・・・と思えます。
毎朝起きて、今日も生かされた。
ぴょん太も生きている。主人も生きている。
あれもできる、これもできる・・・あれもしたい、これもしたい・・・という気持ちになります。
これも、ぴょん太が体を張って、私に教えてくれたことなのだと思います。
モルモン書にこのような聖句があります。
『ところで見よ、アダムが背かなかったならば、、彼は堕落をせずにそのままエデンの園にいたであろう。
そして、創造されたすべてのものは、創造された後の状態そのままで存続したに違いない。
また、すべてのものはとこしえに存続し、終わりがなかったに違いない。
そして、アダムとエバは子供を持たなかったであろう。
また、不幸を知らないので喜びもなく、
罪を知らないので善も行わず、罪のない状態にとどまっていたであろう。
しかし見よ、すべての物事は、万事をご存知である御方の知恵によって行われてきた。
アダムが堕落したのは人が存在するためであり、
人が存在するのは喜びを得るためである。』
(モルモン書 ニーファイ第二書2章22~25節)
人生で、不幸や悲しみがなければ、それが一番良いのかもしれないけれど・・・
誰しも、苦しみや悲しみを経験するからこそ、
それだけ、深い苦しみや悲しみを経験した人ほど、
生活の中で、幸せを見出す、感じる能力が高まっていくのではないかと・・・
つまり、それだけ幸せになれるのではないかと・・・
改めて、そんな風に感じています・・・。