「〇〇さん、あんた、まだ独身でしょ?」
サウナの湯気に紛れて飛んできたその一言に、千尋は笑ってごまかした。
「ええ、まあ……好きでやってるようなもので」
すると、隣の常連・佐和子さんがタオルで顔をぬぐいながら言った。
「ちょうどいいわ。うちの建築士の甥っ子、あんたみたいにしっかりした人と一度会ってみたらどうかしらって、前から思ってたの」
冗談半分のその誘いは、千尋の中に意外と悪くない響きを残した。
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千尋、33歳。市立中学校の教諭になって10年が経った。教えることは好きだし、子どもたちの成長に関われる日々は誇らしい。でも、職員室と自宅を往復する日々は、あっという間に過ぎていった。
恋愛の時間を後回しにしていたわけではない。ただ、「合う人」と自然に出会える余裕もなかった。
「じゃあ、連絡先だけでも交換しなさいよ。合う合わないは、それからでしょ」
佐和子さんの勢いに背中を押されるようにして、連絡先を交換したのは、土曜の午後。サウナでととのった後の、ふわふわした感覚のままに。
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日曜の昼、LINEに届いた一通のメッセージ。
「はじめまして、佐和子叔母さんから聞きました。建築設計事務所で働いている原田壮一郎と申します。急ではありますが、もしよければ今度、お茶でもいかがでしょうか?」
丁寧で、けれどどこか控えめな文章に、千尋は少しだけ心をほどかれた。
会う約束は、翌週の土曜になった。待ち合わせのカフェに現れた彼は、想像より少しだけ背が高くて、黒縁眼鏡をかけていた。シンプルなグレーのシャツに、落ち着いた声。いわゆる「タイプ」ではなかったけれど、なぜか、すぐに話しやすい空気がそこにはあった。
「先生って、どうしても厳しそうなイメージあったんですけど……全然そんなことないですね」
「建築士って、黙々と一人で設計図を描いてるイメージでしたけど、けっこうしゃべりますね」
お互いの偏見を笑い合いながら、コーヒーが一杯、また一杯と進んだ。
その日、別れ際に彼が言った。
「今度、よかったら僕の仕事場、見にきませんか? 教室と違って、ちょっと散らかってますけど」
千尋は、少し迷って、うなずいた。
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彼の事務所は、古いビルの一角にあった。天井まで届く本棚、無造作に積まれた模型。紙のにおいと木の香りが混ざっていて、不思議と落ち着く空間だった。
「今、地元の図書館のリノベーション計画やってて。実は、教育に関わる仕事って、けっこう多いんです」
模型を見ながら話す彼の横顔は、仕事を愛している人の顔だった。
「教師もね、教室っていう“空間”をデザインしてるようなものなんですよ」
ふと、そんな言葉が口をついたとき、壮一郎が笑った。
「それ、すごくいい表現ですね。今度、パクっていいですか?」
それから二人は、月に二回会うようになった。忙しい日々の合間を縫って、それぞれの“設計”を少しずつ見せ合っていくような関係だった。
千尋は、彼といると“戦わなくていい自分”でいられるのが心地よかった。勝ち気でも、理想を高く掲げているわけでもない。けれど、彼の言葉にはいつも、真っ直ぐな芯があった。
「俺ね、ずっと、“暮らし”に寄り添う建築をやりたかったんです。でも、暮らしって、やっぱり“人”なんですよね」
そんな話を聞くたびに、千尋は自分の世界が少しずつ拡張されていくのを感じた。
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ある日、サウナ帰りに千尋が言った。
「ねえ、私、サウナのととのう感じと、壮一郎くんと話してるときの感覚、ちょっと似てると思ってるんだけど……」
彼は少し驚いたような顔をして、次の瞬間、声を上げて笑った。
「なんかわかるかも。リラックスしてて、でも余計なものが削ぎ落とされて、ちゃんと自分の輪郭が見える感じ?」
「そうそう。で、なんか明日も頑張れそうって思える」
その夜、彼が千尋の手を握ったのは、初めてだった。
「じゃあ、これからも時々、俺と“ととのって”くれますか?」
***
それから一年後。
千尋と壮一郎は、築40年の古い一軒家を改装して住みはじめた。彼が設計し、千尋が色味や導線を提案した。家の名前は《Yururi》。
そこには、二人がそれぞれの人生を“設計”し直し、やわらかく重ねていく時間が流れていた。
ふたりの関係も、家も、完璧じゃない。
でも、いつでもどこか“ととのっている”。
——そんな空気が、玄関を開けるたびにふんわりと迎えてくれる。