駅から少し離れた路地裏にある「麺処とし」。

暖簾をくぐると、豚骨の香ばしい匂いと、かすかに煮干しの香りが鼻をくすぐる。


春の終わり、放課後の職員室は、生徒が帰った後の静けさとプリントの束であふれている。

中学教師の藤原夏海は、今日もまた帰りが遅くなった。


「今日こそ夕飯、作ろうと思ってたのになぁ……」

時計を見れば、もう20時近い。お腹も空いたし、疲れも溜まっている。

そうなると、あのラーメン屋のことを思い出す。


「……としさん、まだやってるかな」


のれんをくぐると、カウンターに一人だけ客がいた。

厨房の中には、変わらない笑顔の人――あの頃のままの、ラーメン屋の店長。


「いらっしゃ……あ」


気づいて、目を見開いたのは店長だった。


「なっちゃん……?」


名前を呼ばれて、胸がじんとした。

大学時代、夏海はここでアルバイトをしていた。厨房の賄い、片付け、接客。

アルバイト先であるこの店で、何度となく店長の背中を見ていた。


「としさん、久しぶり。覚えててくれて、うれしい」


「覚えてるも何も、うちの厨房で一番まかないをおかわりした子だったからな」

としさん――店長の名前は、近藤俊也。10歳年上。

大学生の頃、少しだけ片想いをしていた人。


「先生になったんだって?」


「うん。3年目。ちょっとだけ、慣れてきたところ」

カウンター席に座ると、としさんが手早くラーメンを作り始めた。


「前と同じでいいか? 鶏白湯に煮玉子のせ」


「うん、それ、大好きだった」

そう言うと、としさんがふっと笑った。相変わらず、笑うと目尻がくしゃっとなる。


ラーメンが出てくるまでの間、店の中にはゆるやかな音楽と、湯気の音が漂っている。

久しぶりの再会なのに、まるであの頃のバイト終わりに戻ったみたいな気がした。


「なっちゃん、あの時さ、何で突然バイト辞めたんだっけ?」


その問いに、夏海は少しだけ戸惑った。


「……教育実習が決まってて、集中したかったから」


「……そうだったか。あのとき、ちゃんと聞けばよかったな」


そう言ったとしさんの声が、少しだけ寂しそうで、胸がきゅっとなった。

ラーメンが届くと、湯気が立ち上って、昔と変わらない味が口の中に広がった。


「……やっぱり、おいしい」


その言葉に、としさんが照れたように笑った。


「なっちゃんは、ずっと前から頑張り屋だったよな。子どもたち、きっと幸せだ」


「ありがとう。でもね、としさん。たまに、何のために頑張ってるのかわからなくなるときもある」


湯気の向こうに、としさんの目がまっすぐこっちを見ていた。


「なら、ここに来ればいい。俺のラーメン食べて、ひと息つけばいい」


「……うん」

その言葉は、すごく素直で、すごくやさしかった。


店を出る頃には、夜風が心地よくなっていた。


「なっちゃん」


としさんの声に振り返ると、彼が小さな紙袋を差し出した。


「明日も頑張る先生のために。チャーシュー弁当。俺からの応援」


「ありがとう……」

受け取った袋のあたたかさが、手のひらにじんわり広がる。


「また、来ていい?」


「いつでも」

その一言に、全部詰まっていた。


それから、週に一度、夏海は「麺処とし」に通うようになった。


ある日、仕事帰りに立ち寄ったとき、としさんがふとつぶやいた。


「なっちゃん。俺さ、あの頃ちょっとだけ、なっちゃんのこと……気になってた」


「……うそ。知らなかった」


「でも、今なら言える。よかったら、これからも……俺のラーメン食べてくれない?」


それはつまり、そういう告白で。


「うん、じゃあ……先生業のかたわら、お客さん兼彼女でもいい?」


「最高だよ、それ」


厨房の奥から、グツグツと煮込まれるスープの音が聞こえる。

ラーメンと、想いと、ふたりの時間が、これから少しずつ溶けていく。