2025年4月30日(水)


遠くて近い人

東京で教えることに、正直なところ、特別な意味はなかった。ただ、配属されたのがそこだったというだけだ。

千紗は、小学校の教室で日々子どもたちと向き合っていた。25歳。真面目で、少し神経質。よく言えば几帳面、悪く言えば面倒くさい女だった。

そんな彼女が、なぜ富山の男と付き合っていたのかと聞かれれば、「大学の同期だったから」としか答えようがない。


彼、修司は中学校の教諭だった。教育実習の頃から部活動の指導に目覚めてしまい、休日のほとんどをグラウンドで過ごしているような男だった。

部活が好きなのか、生徒が好きなのか、それとも単に「やることがある」という事実に酔っているのかは、当の本人にもわからなかったろう。

それでも彼はよく働いた。朝から夜まで。東京と富山、簡単に行き来できる距離ではない。付き合って1年を越えたころには、会えるのは年に数回になっていた。


「なんで私たち、付き合ってるんだっけ?」


千紗が言ったのは、ある秋の夜だった。ビデオ通話の向こうで、修司はパソコンに何かを打ち込みながら返事をした。


「ん?……好きだからじゃないの?」


その瞬間、千紗は静かに冷めた。

「そうだったね」と微笑みながら通話を切った後、手元のスマホを伏せたまま、目を閉じた。

やさしさ、誠実さ、努力――そういったものが人を救うとは限らない。むしろ、時としてそれらは相手を置き去りにする。


別れと出会い

冬が来る前に、別れた。

特に劇的な別れではなかった。話し合いも泣きもせず、ただ「じゃあね」と言って終わった。

そのあと、互いに少しずつ違う誰かと出会った。そういうものだ。失ったものを埋めるために、箱には別のものを詰め込む。

だが、人間というのは意外に頑固で、箱の形と同じものじゃなければ納得しない。少なくとも千紗はそうだった。


相手の男性は、千紗にとても優しかった。大手企業に勤めていて、定時に帰ってきて、土日は美術館やカフェに連れて行ってくれる。

けれど彼は、千紗の中の「教師」という存在に、微かな劣等感を抱いていた。わかってしまうのが、つらかった。千紗は「教師」という肩書を特別なものだとは思っていなかった。でも、彼の前では、その肩書きが邪魔になった。


修司もまた、誰かと付き合っていた。最初は居心地が良かった。部活に理解を示してくれたし、物理的な距離も近かった。

でも彼女は言った。「いつまでそんなに働くの?」と。

修司は答えられなかった。答えるためには、自分の人生全体を疑わなければならなかったからだ。


結局、二人とも別れた。


再会、その後…

そして、三年が過ぎた。

大学の同窓会に、千紗は少し迷ってから顔を出した。東京駅からの新幹線で、なんとなく思い出す名前や顔が浮かんでは消えた。

富山から来る人もいるらしい、と誰かが言っていた。


再会は、なんというか、予定調和だった。

修司は少し痩せていて、千紗は少し丸くなっていた。どちらも、仕事に疲れていた。でも、どこか透明だった。

話し始めると、止まらなかった。かつて話し合いの末に別れたふたりは、今度は話しすぎて、夜の最後まで残っていた。


「もし……付き合うとしたら、次は結婚が前提だよね」


そう言ったのは、千紗だった。お酒も手伝って、目を逸らさずに言った。

修司は驚いたように目を見開いて、でもすぐに頷いた。「うん。俺もそう思ってた」

それだけだった。


それから一年後、千紗は教員を辞めて富山に引っ越した。

「もったいない」と言う人もいたし、「やっと落ち着いたね」と言う人もいた。

どちらも正しかったし、どちらも間違っていた。


教員を辞めたことを後悔していないかと聞かれれば、少しはしていると答えるだろう。

でも、それは「東京を離れたことを寂しいと思う」とか、「教壇に立つ夢をあきらめた」とか、そういう話ではない。

ただ、「もっと違う選択もあったかもしれない」と思う程度の話だ。


修司は相変わらず忙しい。土日も部活。朝早く出て、夜に帰ってくる。

けれど、彼はもう「仕事の人」ではなく、「家庭の人」にもなった。

夕飯を一緒に食べる日が週に二日でも、彼はちゃんと「帰ってくる」人になった。


千紗は今、地域の子ども支援センターでパートをしている。

「教える」ではなく「寄り添う」仕事だ。それが合っているかどうかはわからない。でも、悪くはない。

生活は、あいまいな満足と、やわらかな妥協に満ちている。



愛というのは、たぶん「好き」とか「一緒にいたい」ではなく、「この人となら、違ってもやっていけそうだ」と思えることかもしれない。

遠距離だったあの頃より、今のほうがよほど遠くにいる気がするときもある。

でも、今のほうがずっと、近くにいるとも思う。


そんなふうにして、人は少しずつ、「もう一度」を選ぶのかもしれない。



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