結婚して一ヶ月。


 「ただいま」


 帰宅して、玄関のドアを開けると、ふわりとカレーの匂いが漂ってくる。


 「おかえり。今日機嫌悪かった?」


 エプロン姿の慎一が、鍋をかき混ぜながら声をかける。

 はるかは靴を脱ぎながら一言、「普通」とだけ返した。


 以前なら「また普通かよ」と笑って流していた慎一だが、一緒に住むようになって、彼女の「普通」には何段階かあることが分かってきた。


 「“機嫌悪くないけど、ちょっと疲れてる”の普通?」


 「……うん」


 「じゃあ、ごはんのあとにマッサージ券出しとくね」


 「別にいらない」


 そう言いながらも、はるかはソファに座ると、クッションを抱えたまま小さくため息をついた。

 その姿を見て、慎一は少し笑いながらカレーの盛りつけに戻る。


 新婚とはいえ、甘さよりも静けさのあるふたりの暮らし。

 はるかは感情表現が控えめで、慎一はそれに慣れきっている。


 「ほい、今日のごはん。玉ねぎトロトロカレー」


 「ありがと」


 その一言に、慎一は内心ガッツポーズ。はるかの「ありがと」は、レアなのだ。


 「……職員室で、教頭に“新婚らしくないな”って言われた」


 はるかが突然ぽつりと言う。


 「俺も言われた。“もっとイチャイチャしないのか”って。職員室で言うことか?」


 「バカみたい」


 「なあ。俺もそう思った」


 ふたりはクスクスと笑った。

 感情を派手に表現するのが苦手なはるか。でも、その小さな笑い声だけで、慎一の一日は報われる。


 「……別にさ、手つないで登校とかしなくていいよね」


 「うん、無理。絶対しない」


 「そっか。……でも、朝に『行ってらっしゃい』くらい言ってもいいかなって思ってたんだけど」


 はるかはスプーンを止めると、慎一を見た。


 「……言われたいの?」


 「ちょっとだけ」


 「ふーん」


 それっきり、また沈黙。でも数分後、食後の紅茶を入れてくれて、カップをテーブルに置くときに小さな声で呟いた。


 「……行ってらっしゃいって、明日言う」


 慎一は驚いたように顔を上げたが、はるかはもうカップを口に運んでいた。


 「……うれしい」


 「調子に乗らないで」


 でも、ほんの少しだけ頬が赤くなっていた。


 夜。洗濯物をたたみながら慎一がぽつりと聞いた。


 「ちゃんと夫婦してるなって感じる?」


 「してないけど」


 「してないんだ」


 「でも……一緒に住んでることが普通になってきた」


 慎一は洗濯物の山に顔を埋めて「それ、めっちゃうれしい」と呟いた。


 はるかは一瞬だけ笑った。でもその笑顔は慎一にだけ見せる、ごく小さなものだった。


 部屋の明かりを落とし、ベッドに入る。背を向けて寝ようとするはるかの肩越しに、慎一がそっと尋ねた。


 「なあ、俺のこと好き?」


 「寝る」


 「ちょっと! 今のは答えてほしいやつ!」


 「寝るってば」


 慎一が「えー」と拗ねたように言うと、数秒後。はるかが布団の中でぽつりと呟いた。


 「……言わなくても、わかるでしょ」


 その言葉に、慎一はしばらく黙って、それから小さく笑った。


 「うん、わかってる。でも、聞きたいときもある」


 「面倒くさい」


 「でも、そういうところも好きでしょ?」


 「調子に乗るな」


 暗がりの中で、ふたりの手がそっと触れ合った。言葉にしなくても、温度で伝わるものが確かにあった。


 新婚生活は、劇的な変化も、映画みたいな甘さもない。


 でも、静かでやさしい毎日が、確かにそこにあった。