「ただいま」
帰宅して、玄関のドアを開けると、ふわりとカレーの匂いが漂ってくる。
「おかえり。今日機嫌悪かった?」
エプロン姿の慎一が、鍋をかき混ぜながら声をかける。
はるかは靴を脱ぎながら一言、「普通」とだけ返した。
以前なら「また普通かよ」と笑って流していた慎一だが、一緒に住むようになって、彼女の「普通」には何段階かあることが分かってきた。
「“機嫌悪くないけど、ちょっと疲れてる”の普通?」
「……うん」
「じゃあ、ごはんのあとにマッサージ券出しとくね」
「別にいらない」
そう言いながらも、はるかはソファに座ると、クッションを抱えたまま小さくため息をついた。
その姿を見て、慎一は少し笑いながらカレーの盛りつけに戻る。
新婚とはいえ、甘さよりも静けさのあるふたりの暮らし。
はるかは感情表現が控えめで、慎一はそれに慣れきっている。
「ほい、今日のごはん。玉ねぎトロトロカレー」
「ありがと」
その一言に、慎一は内心ガッツポーズ。はるかの「ありがと」は、レアなのだ。
「……職員室で、教頭に“新婚らしくないな”って言われた」
はるかが突然ぽつりと言う。
「俺も言われた。“もっとイチャイチャしないのか”って。職員室で言うことか?」
「バカみたい」
「なあ。俺もそう思った」
ふたりはクスクスと笑った。
感情を派手に表現するのが苦手なはるか。でも、その小さな笑い声だけで、慎一の一日は報われる。
「……別にさ、手つないで登校とかしなくていいよね」
「うん、無理。絶対しない」
「そっか。……でも、朝に『行ってらっしゃい』くらい言ってもいいかなって思ってたんだけど」
はるかはスプーンを止めると、慎一を見た。
「……言われたいの?」
「ちょっとだけ」
「ふーん」
それっきり、また沈黙。でも数分後、食後の紅茶を入れてくれて、カップをテーブルに置くときに小さな声で呟いた。
「……行ってらっしゃいって、明日言う」
慎一は驚いたように顔を上げたが、はるかはもうカップを口に運んでいた。
「……うれしい」
「調子に乗らないで」
でも、ほんの少しだけ頬が赤くなっていた。
夜。洗濯物をたたみながら慎一がぽつりと聞いた。
「ちゃんと夫婦してるなって感じる?」
「してないけど」
「してないんだ」
「でも……一緒に住んでることが普通になってきた」
慎一は洗濯物の山に顔を埋めて「それ、めっちゃうれしい」と呟いた。
はるかは一瞬だけ笑った。でもその笑顔は慎一にだけ見せる、ごく小さなものだった。
部屋の明かりを落とし、ベッドに入る。背を向けて寝ようとするはるかの肩越しに、慎一がそっと尋ねた。
「なあ、俺のこと好き?」
「寝る」
「ちょっと! 今のは答えてほしいやつ!」
「寝るってば」
慎一が「えー」と拗ねたように言うと、数秒後。はるかが布団の中でぽつりと呟いた。
「……言わなくても、わかるでしょ」
その言葉に、慎一はしばらく黙って、それから小さく笑った。
「うん、わかってる。でも、聞きたいときもある」
「面倒くさい」
「でも、そういうところも好きでしょ?」
「調子に乗るな」
暗がりの中で、ふたりの手がそっと触れ合った。言葉にしなくても、温度で伝わるものが確かにあった。
新婚生活は、劇的な変化も、映画みたいな甘さもない。
でも、静かでやさしい毎日が、確かにそこにあった。
