2025年5月14日(水)


右足と左胸

「先生、次の点滴、15分後に交換しますね」


そう言って彼女はカーテンを閉めた。看護師の名札には「佐々木」と書かれていたけれど、みんな彼女を「ミカさん」と呼んでいた。年は、僕より少し上か、同じくらいか。年齢不詳の雰囲気をまとった人だった。


右足の骨折で、この病院に来て10日が経った。


「先生、何年生を持ってるんですか?」


ミカさんが聞いてきたのは、病室に花が届いた日だった。5年生の教え子たちから、寄せ書きと折り鶴と一緒に届いた、春色の花束。


「5年生です。廊下を走るなとか、ケガするなよとか言ってるのに、自分が階段を踏み外すとは…」



ミカさんは笑った。誰かの苦しみを、無理に慰めようとはしない人だった。代わりに、こちらが少し笑える空気を作ってくれる。


「それでも、寄せ書きが届くなんて、いい先生なんですね」


「どうでしょう。でも、子どもたちはよく笑います」


「それ、たぶん一番いい先生です」


「子どもたち、どうしてるんだろうなあ…」


僕がつぶやくと、彼女は目を閉じたまま答えた。


「きっと、先生の言葉、覚えてると思いますよ。私、小学5年のときの担任、まだ覚えてます」


「どんな先生でしたか?」


「うーん…口数少ないけど、泣くとそっとハンカチ出してくれるような」


「ミカさんも、そういうタイプですね」


彼女は目を開けて、困ったように笑った。


「私は…ハンカチじゃなくて、ガーゼですね」


その日から、僕の入院生活には、15時のミカさんが加わった。いつも点滴のとき、何かしら話すようになった。


学校の話、子どもたちの話、好きな食べ物、過去の旅行の話。話すことが尽きないわけではなかったけれど、沈黙が心地よかった。


ある日の午後、彼女がいつもより早く来た。


「今日、早めに来ちゃいました。先生、病院の中、ちょっとだけ歩けます?」


「リハビリで10分くらいなら」


「じゃあ、屋上行きましょう。今、梅が咲いてるんです」


病院の屋上なんて、考えたこともなかった。杖をつきながらゆっくり歩くと、ほんの少し春の匂いがした。屋上には、風に揺れる梅の木が一本。


「春って、なんか…しみません?」


ミカさんが言った。


「わかります。風が胸に入ってくる感じ」


「左胸の奥。ちょっと痛いような、あったかいような」


不思議なことに、その言葉のあと、彼女を好きだと思った。


正確に言えば、その瞬間、好きだと気づいた。


退院が近づくと、時間が惜しくなった。彼女と会える15時が、だんだんと終わりの予感を運ぶ。


「先生、退院しても、きっと忙しいですよね」


「そうですね…」


「じゃあ…これ、よかったら」


彼女が差し出したのは、小さな手帳。ページの端には、かわいい付箋が貼ってあった。


「病院の屋上で聞いた先生の話、書いてみたんです。いつか忘れちゃうかもしれないから」


僕はそれを両手で受け取った。まだ読みたくなかった。退院の日、病室のドアの前で彼女は「足、お大事にしてくださいね」と言った。




それから3週間後。


学校の桜は、すっかり葉桜になっていた。5年生だった子たちは6年生になり、教室はまた新しい顔でいっぱいになった。


放課後、ポケットの中の手帳を開く。あの日、彼女がくれたページの一番最後。


「好きです。いつか、春じゃない季節にも一緒に歩けたらいいなって思ってます」


そのページの隅には、電話番号と名前。
070-◯◯◯◯-1151   佐々木美佳
 


少し気付くのが遅くなってしまったけれど帰ったら連絡してみよう。手帳を胸ポケットしまい、手でおさえる。


右足のギプスは取れても、左胸の痛みはまだ、ちょっとだけ、心地よく続いていた。