2025年5月15日(木)


ボランティア

もうすぐ終わる。

この、夢のような時間が。そう思うと、少し呼吸が浅くなった。


ベンチに腰かけた私の隣で、彼は自販機で買った缶コーヒーを差し出してくる。ぬるい。けれど、ありがたかった。


「来週、また来れる?」


私は、缶を受け取りながら、今度はちゃんと答えた。


「来週は…無理かもしれない。でも、夏からは毎週、ずっと一緒にいられるよ」


彼がこちらを振り向く。目を見開いて、まるで聞き間違いかとでも言いたげに。


「え?」


私はバッグから、一枚の書類のコピーを取り出して、彼に手渡した。

それは——転任願



すべての始まりは、ほんの気まぐれだった。

新年度、慌ただしい教室、職員会議、生徒指導…。どこかで何かが擦り切れていた。


都内の中学校に勤めて十年目。教師としての自分に自信はある。けれど、人としてはどうだったか。生徒に「ありのままの自分を大事にしよう」と言いながら、私はずっと、自分を偽っていた気がした。


そんな時、たまたま見かけた「子ども支援ボランティア募集」のページに、衝動的に申し込んだ。


「逃げたって、現実は変わらないよ」


母の言葉が頭をよぎったけれど、私はもう、壊れる直前だった。



「先生って呼ばれるの、苦手なんです」


そう言った私に、彼は少し首をかしげて、笑った。


「じゃあ、名前で呼ぶよ。直美、でいい?」


彼は海斗。被災地で子どもたちの居場所作りをしているスタッフ。

年齢も育ちも違うけれど、話していると、不思議な安心感があった。


週末になるたび、私は夜行バスに乗って、彼のもとへ通った。月曜の1限には、教室に立っていた。誰にも言わなかった。言えなかった。


けれど、彼だけは、何も言わずに待っていてくれた。



ある日、星空の下、彼が言った。


「直美、無理してない? …俺さ、もっと一緒にいたいんだ。東京に行ってもいい。結婚を前提に交際しよう」


そのとき、私はうまく答えられなかった。


教師は、生徒に「道を示す」役割を求められる。揺らいではいけない。けれど、私は、彼の前でだけ、ただの一人の人間になれた。


あれから、数週間。学校の教室で、休み時間にある生徒がぽつりと漏らした。


「先生ってさ、いつもちゃんとしてて、正しいことしか言わない。でも…先生は、自分の本当の気持ち、大事にしてる?」


その言葉に、胸を突かれた。


私は、誰よりも自分を守ることに必死だった。

でも本当は、一番守りたかったのは、自分の弱さも、欲も、夢も、全部引き受けてくれる人との未来だった。


それが、彼だった。



「来週、また来れる?」


もう一度、彼の問いが聞こえる。


私はコーヒーをひとくち飲んで、しっかりと頷いた。


「来年からは、ずっとここで暮らす。あなたと一緒に」


彼は何も言わず、ただ私を抱きしめた。風が吹いて、どこかで風鈴の音がした。


私は教師として、また一人の女性として、初めて「私自身の選択」をした。


ぬるい缶コーヒーの味が、こんなにも温かく感じたのは、きっと今日が初めてだった。




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