2025年5月15日(木)
ボランティア
もうすぐ終わる。
この、夢のような時間が。そう思うと、少し呼吸が浅くなった。
ベンチに腰かけた私の隣で、彼は自販機で買った缶コーヒーを差し出してくる。ぬるい。けれど、ありがたかった。
「来週、また来れる?」
私は、缶を受け取りながら、今度はちゃんと答えた。
「来週は…無理かもしれない。でも、夏からは毎週、ずっと一緒にいられるよ」
彼がこちらを振り向く。目を見開いて、まるで聞き間違いかとでも言いたげに。
「え?」
私はバッグから、一枚の書類のコピーを取り出して、彼に手渡した。
それは——転任願。
◇
すべての始まりは、ほんの気まぐれだった。
新年度、慌ただしい教室、職員会議、生徒指導…。どこかで何かが擦り切れていた。
都内の中学校に勤めて十年目。教師としての自分に自信はある。けれど、人としてはどうだったか。生徒に「ありのままの自分を大事にしよう」と言いながら、私はずっと、自分を偽っていた気がした。
そんな時、たまたま見かけた「子ども支援ボランティア募集」のページに、衝動的に申し込んだ。
「逃げたって、現実は変わらないよ」
母の言葉が頭をよぎったけれど、私はもう、壊れる直前だった。
◇
「先生って呼ばれるの、苦手なんです」
そう言った私に、彼は少し首をかしげて、笑った。
「じゃあ、名前で呼ぶよ。直美、でいい?」
彼は海斗。被災地で子どもたちの居場所作りをしているスタッフ。
年齢も育ちも違うけれど、話していると、不思議な安心感があった。
週末になるたび、私は夜行バスに乗って、彼のもとへ通った。月曜の1限には、教室に立っていた。誰にも言わなかった。言えなかった。
けれど、彼だけは、何も言わずに待っていてくれた。
◇
ある日、星空の下、彼が言った。
「直美、無理してない? …俺さ、もっと一緒にいたいんだ。東京に行ってもいい。結婚を前提に交際しよう」
そのとき、私はうまく答えられなかった。
教師は、生徒に「道を示す」役割を求められる。揺らいではいけない。けれど、私は、彼の前でだけ、ただの一人の人間になれた。
あれから、数週間。学校の教室で、休み時間にある生徒がぽつりと漏らした。
「先生ってさ、いつもちゃんとしてて、正しいことしか言わない。でも…先生は、自分の本当の気持ち、大事にしてる?」
その言葉に、胸を突かれた。
私は、誰よりも自分を守ることに必死だった。
でも本当は、一番守りたかったのは、自分の弱さも、欲も、夢も、全部引き受けてくれる人との未来だった。
それが、彼だった。
◇
「来週、また来れる?」
もう一度、彼の問いが聞こえる。
私はコーヒーをひとくち飲んで、しっかりと頷いた。
「来年からは、ずっとここで暮らす。あなたと一緒に」
彼は何も言わず、ただ私を抱きしめた。風が吹いて、どこかで風鈴の音がした。
私は教師として、また一人の女性として、初めて「私自身の選択」をした。
ぬるい缶コーヒーの味が、こんなにも温かく感じたのは、きっと今日が初めてだった。
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