2025年5月16日(金)


二十四節気のころに


春の終わりが近づくと、小学校の中庭のハナミズキが、白くて淡い花を咲かせる。まるで空から落ちてきた光を、そっと枝先で受け止めているようだった。


「…この木、好きなの。控えめで、でも綺麗で」


そう言っていたのは、大学のゼミで隣の席だった、岸本悠だ。


あれから八年。

今、彼女は小学校の教員になっていて、俺は中学校の数学教師だ。野球部の顧問をしている。忙しさに追われる日々だけど、心のどこかに、ふと、彼女が浮かぶことがある。例えば、今日のような春の午後。


「先生、グラウンド開けてください!」


野球部の一年が駆け寄ってきて、俺の思考は現実に引き戻される。


「おう。あと五分したら行く」


部活が終わるのは日没近く。帰り道、校門を出るとふわりと甘い花の香りがした。ふと見上げると、街路樹にハナミズキが咲いていた。


(あいつ、元気かな)


そう思ってスマホを開くと、LINEの通知がひとつだけ届いていた。

送り主は――岸本悠。


久しぶり。突然だけど、相談してもいい?


心臓が一瞬だけ跳ねる。

けれど、指先は落ち着いていた。


久しぶり。どうした?


返して数分後、彼女から電話がかかってきた。


「ごめん、急に。あのさ……最近、プライベートな時間てとれてる?私は仕事が忙しくて全然時間がない」


「俺もだよ。部活もあるから、土日なんて消えていくし。気づいたら、夕飯コンビニだしな」


ふたりして笑った。


「ねえ、吉田くん。今度の週末、会わない?中間のあたりで、お茶でも」


その提案に、断る理由なんてなかった。



待ち合わせ場所は、市内の古い喫茶店だった。窓辺の席に、彼女はもう座っていた。

白いブラウスに、柔らかなベージュのスカート。まるで春風を纏っているような姿だった。


「久しぶり。変わってないね」


「悠こそ、変わらない。けど、なんか先生っぽくなった」


「それ、褒めてる?」


「もちろん」


コーヒーを飲みながら、近況を語り合う。子どもたちのこと、保護者とのやりとり、時に泣きたくなるほど報われない瞬間。けれど、それでもやめられない、この仕事への愛着。


「教室って、毎日が物語みたいだよね」


彼女が言った。


「そうだな。俺も生徒に数学教えてるけど、たまに“人生の方程式”とか語っちゃってる。きっと鬱陶しい先生だと思われてる」


悠が笑う。目元に、あの頃と同じ皺が浮かんで、俺の心の奥にあった何かが、ふと緩んだ。


「ねえ、吉田くん」


「ん?」


「大学のときさ、言おうと思ってたことがあるの」


「……何?」


「吉田くんと、もっと話したかったの。もっと、近くにいたかった」


思わず息を飲んだ。


「……それ、俺も思ってた」


彼女が、そっと目を伏せた。


「でも、お互い教師になっちゃって、忙しくて、時間なんてどんどん過ぎて。だけどね、最近、ふと考えるの。“遅すぎる春なんて、ないんじゃないかな”って」


「それ、国語の先生っぽいな」


「うん。私、やっぱり言葉でしか伝えられないから」


「なら、俺は……数学で答えるよ」


そう言って、俺は笑った。


「悠、もしよかったら、今度また会おう。グラウンドじゃなくて、教室でもなくて――ふたりだけの場所で」


彼女が、ゆっくりと頷いた。


外には、ハナミズキが風に揺れていた。

その花の向こうに、次の季節の気配が確かにあった。