2025年5月23日(金)
焼き目のかたち
月曜の夜、ビルの五階。静かな調理室に、油の弾ける音が淡く響いている。
僕はエプロンの紐をきつく締めながら、今日も「生きているふり」を始める。
社会という名の歯車の中で、僕は自分の意志をいつの間にか見失っていた。
それでもここへ来ると、鍋の中にだけは確かな重みがあった。
「ハンバーグのタネを練るときは、手の温度で脂が溶けないように、すばやく混ぜてくださいね」
そう言ったのは、佐伯先生。
白いエプロンに三角巾。お料理教室の先生と聞いたが、それよりももっと何か――
例えば「誰かの昨日を引き受けてきた人間」のような雰囲気をまとっていた。
「こねて、空気を抜いて。形を整えて、焼き目を信じてください」
その「焼き目を信じてください」という言葉が、やけに印象に残った。
※
僕のハンバーグはいつも形が不格好だ。
片方だけが焦げ、もう片方は生焼けになる。
でも、彼女はそれを笑わなかった。
「焦げるというのは、火が入ってる証拠なんですよ」
言葉の端に、優しさというより赦しのようなものがあった。
その日から、料理教室は僕にとって「失敗をしてもよい場所」になった。
※
教室が終わると、僕たちはたまに駅まで一緒に歩いた。
特別な話はしない。ただ、歩幅だけが静かに合っていた。
「先生は、なぜ料理教室を?」
「前職の学校の教え子に言われたんです。『先生の夕飯の話、毎回美味しそう』って。それで、じゃあ私も学ぼうかなって」
彼女の言葉の中には、他人の存在がいつもいる。
それが不思議と、寂しさではなくあたたかさに感じられた。
※
ある日、教室でハンバーグの仕上げにソースを作っていると、彼女がふと尋ねた。
「あなたの料理、少しだけ味が変わりましたね」
「え?」
「なんていうか、…誰かを思ってる味になってきた気がして」
僕は答えられなかった。フライパンの中でソースが静かに泡立っていた。
その帰り道、思わず訊いた。
「先生。……もし、僕がこの先も料理を続けたら、また食べてくれますか?」
彼女は足を止めて、しばらく考え込むようにしてから言った。
「うん。私、あなたのお料理、また食べたいです」
夜風が吹いた。遠くのビルの灯が揺れていた。
それだけの言葉だったのに、僕は確かに立ち上がる感覚を覚えた。
※
それから数ヶ月後。
教室が終わったあと、僕たちはキッチンスタジオを借りて、一緒に料理を作るようになった。
ふたりで作ったハンバーグを皿に並べる。
丸く、少し不格好だけど、正直なかたち。
焼き目は美しいこげ茶色。
ソースは、彼女が好んでいた赤ワインを少しだけ使って仕上げた。
「今日の味は、どうですか?」
「んー……100点中……98点!」
「2点は?」
「つづきは、また次のデートでね」
彼女は笑って、僕のコップに水を注いだ。
その水音さえ、どこか祝福の鐘のように聞こえた。
※
僕は今でも、ハンバーグを焼くときに思う。
あのときの「焼き目を信じてください」という言葉がなければ、
彼女と出会った意味も、自分の居場所も、きっと見えなかった。
愛とは、レシピ通りにいかないものだ。
だけど、焦がさず焼ける日が、いつかきっとやってくる。
そして、誰かと食卓を囲めたなら――
それはもう、十分に幸せな料理なのだ。
