2025年5月23日(金)


焼き目のかたち


月曜の夜、ビルの五階。静かな調理室に、油の弾ける音が淡く響いている。

僕はエプロンの紐をきつく締めながら、今日も「生きているふり」を始める。

社会という名の歯車の中で、僕は自分の意志をいつの間にか見失っていた。

それでもここへ来ると、鍋の中にだけは確かな重みがあった。


「ハンバーグのタネを練るときは、手の温度で脂が溶けないように、すばやく混ぜてくださいね」


そう言ったのは、佐伯先生。

白いエプロンに三角巾。お料理教室の先生と聞いたが、それよりももっと何か――

例えば「誰かの昨日を引き受けてきた人間」のような雰囲気をまとっていた。


「こねて、空気を抜いて。形を整えて、焼き目を信じてください」


その「焼き目を信じてください」という言葉が、やけに印象に残った。



僕のハンバーグはいつも形が不格好だ。

片方だけが焦げ、もう片方は生焼けになる。

でも、彼女はそれを笑わなかった。


「焦げるというのは、火が入ってる証拠なんですよ」


言葉の端に、優しさというより赦しのようなものがあった。

その日から、料理教室は僕にとって「失敗をしてもよい場所」になった。


教室が終わると、僕たちはたまに駅まで一緒に歩いた。

特別な話はしない。ただ、歩幅だけが静かに合っていた。


「先生は、なぜ料理教室を?」


「前職の学校の教え子に言われたんです。『先生の夕飯の話、毎回美味しそう』って。それで、じゃあ私も学ぼうかなって」


彼女の言葉の中には、他人の存在がいつもいる。

それが不思議と、寂しさではなくあたたかさに感じられた。



ある日、教室でハンバーグの仕上げにソースを作っていると、彼女がふと尋ねた。


「あなたの料理、少しだけ味が変わりましたね」


「え?」


「なんていうか、…誰かを思ってる味になってきた気がして」


僕は答えられなかった。フライパンの中でソースが静かに泡立っていた。


その帰り道、思わず訊いた。


「先生。……もし、僕がこの先も料理を続けたら、また食べてくれますか?」


彼女は足を止めて、しばらく考え込むようにしてから言った。


「うん。私、あなたのお料理、また食べたいです」


夜風が吹いた。遠くのビルの灯が揺れていた。

それだけの言葉だったのに、僕は確かに立ち上がる感覚を覚えた。



それから数ヶ月後。

教室が終わったあと、僕たちはキッチンスタジオを借りて、一緒に料理を作るようになった。


ふたりで作ったハンバーグを皿に並べる。

丸く、少し不格好だけど、正直なかたち。

焼き目は美しいこげ茶色。

ソースは、彼女が好んでいた赤ワインを少しだけ使って仕上げた。


「今日の味は、どうですか?」


「んー……100点中……98点!」


「2点は?」


「つづきは、また次のデートでね」


彼女は笑って、僕のコップに水を注いだ。

その水音さえ、どこか祝福の鐘のように聞こえた。


僕は今でも、ハンバーグを焼くときに思う。

あのときの「焼き目を信じてください」という言葉がなければ、

彼女と出会った意味も、自分の居場所も、きっと見えなかった。


愛とは、レシピ通りにいかないものだ。

だけど、焦がさず焼ける日が、いつかきっとやってくる。


そして、誰かと食卓を囲めたなら――

それはもう、十分に幸せな料理なのだ。