2025年5月24日(土)


ヒロインへ花束を

 あの日、私は仕事を終えて、走るように横浜アリーナに向かった。


 推しは、back number。10年以上聴き続けてきた、大切な存在。だけど、ライブに一人で行くのは、実は今回が初めてだった。


 「ここ、空いてますか?」


 開演直前、隣の席に彼がやってきて声をかけた。黒縁メガネにネイビーのコート。きちんとした印象の、年下かな?と思える彼。


 「どうぞ」


 私は笑ってうなずき、心の中では少し緊張していた。一人で来たとはいえ、知らない人と肩を並べてライブを観るなんて、ちょっとドキドキする。


 「『ヒロイン』、絶対泣きそうです。毎年この季節に聴くと、勝手に切なくなるんですよね」


 「わかります。私も、放課後の廊下とかでつい口ずさんじゃいます」


 「あれ?先生、ですか?」


 「はい。小学校で、先生をしています」


 そう答えると、彼は「なんか似合ってる」と笑った。


 ライブが始まり、会場が一気に光に包まれる。イントロが流れるたびに、私たちは顔を見合わせて笑った。まるで、昔からの友達みたいに。


 それからは自然だった。推し友としてメッセージをやり取りし、好きな曲の話をして、次のライブも一緒に申し込んだ。

 彼はIT系の会社で働くエンジニア。休日の過ごし方も、音楽の趣味も、私と不思議なくらい合った。


 春には『アイラブユー』を一緒に聴いて、夏にはフェスに出かけ、冬にはまたあのアリーナに戻った。

 推し活は、もう「彼との思い出」として染まっていった。


 そして今年の春。桜が散り始めた、少し肌寒い日曜日。


 「ちょっと、来てほしい場所があるんだ」


 彼に連れられて着いたのは、初めて出会った横浜アリーナの近くの小さな公園だった。彼はベンチに私を座らせると、バッグから何かを取り出した。


 それは、初めて一緒に行ったライブのチケットの半券だった。


 「これ、ずっと財布に入れてたんだ。あの日、ここで隣に座れて、ほんとにラッキーだったと思ってる」


 彼の手には、もうひとつのものがあった。白いカスミソウとピンクのガーベラの花束。


 「back numberの『花束』って曲、ずっと好きだった。でも、やっぱり、ちゃんと渡したかったんだ。花束も、気持ちも」


 彼は少し照れながら、けれど真っ直ぐに言った。


 「結婚してください」


 私は、言葉が出なかった。ただ、涙がこぼれるのを止められなかった。


 思えば、30代になって、恋をすることに臆病になっていた。

 教師という仕事もあって、誰かに弱音を吐くことも少なかった。

 だけど彼は、音楽のように、さりげなく、でも深く、私に寄り添ってくれた。


 あの日、同じ音に恋した私たちは、今日、同じ未来を選ぶ。


 これからも、back numberと、あなたと――

 推しとふたりの人生を、ゆっくり重ねていきたい。