2025年5月25日(日)


「暑いですね……」


その日、職員室の冷房が壊れていた。窓を開け放しても、じっとりとした風が入るだけだった。


「でも、夏って魚が釣れるから好きなんですよね」

と、理科の西村先生がふとつぶやいた。


家庭科の藤田先生は、書類の手を止めて、彼の横顔を見た。


「そうなんですか?私はどちらかというと、春か秋が……」


「先生は、何が好きなんです?」


「私は……ひまわり、ですね。夏の花の中では」


「似合いますね、明るいし、元気そうだし」


その言葉に、藤田先生は少しだけ笑った。40歳を過ぎて、「似合う」なんて言われることは少なくなった。



数日後の放課後、西村先生が声をかけてきた。


「来週の土曜、ひまわり畑行きませんか?釣り場の近くにあるので釣りも少し」


「釣り……見てるだけでいいなら」


「ええ、もちろん。日陰でのんびりしながら。麦茶でも持って行きますよ」


そうして決まった、小さな“夏の遠足”。




車を降りてすぐ、目の前に広がったのは一面のひまわり畑だった。


「すごい」


「毎年ここに来るんですけど、今年は誰かと一緒で嬉しいです」


ひまわりたちは空に向かって背を伸ばし、まるで太陽に話しかけるように咲いていた。

藤田先生はスマートフォンを構えて、花の写真を何枚も撮った。


「先生、花に詳しいですよね」


「ええ、花が好きなんです。世話してると、気持ちが落ち着くというか……」


「魚も似てるかも。釣ってると、自分と向き合える気がします」


西村先生が案内した木陰には、彼が準備していた折りたたみチェアと、冷たい麦茶の入った水筒、そして釣り道具があった。


「ちょっとだけ、釣らせてください」


彼は手際よく仕掛けをセットし、水面に向かって糸を投げた。


「この時間帯、よく釣れるんですよ。水面が動いてるでしょ」


藤田先生はじっと見つめた。

水面に、夏の空が映っていた。ひまわりの影が揺れていた。


「……静かですね」


「そう。釣りって、静けさの中で話す自分の声がよく聞こえるんです。最近、自分の中に空白があるなって思ってて……そこに何を入れようかなって考える時間が増えたんです」


「私は逆かもしれません。いつも“誰かのために”って思ってたから、自分の空白に気づかないふりをしてました」


しばらく沈黙が続いた。


ふと、竿がわずかにしなった。


「来た」


西村先生はすっと立ち上がり、慎重に糸を引いた。


「おお、これは……」


釣れたのは、小ぶりな魚だった。彼はそれをやさしく持ち上げ、水に戻した。


「持ち帰らないんですか?」


「ええ。釣って、見て、返す。それで十分なんです」


「……なんか、いいですね。大事なものほど、手元に置かない方がいいのかもしれませんね」


西村先生はふと、藤田先生の方を見て、やわらかく言った。


「でも……ときどきは、隣にいてくれたら、うれしいなって思いますけどね」


藤田先生は少し目をそらして、ひまわりの方を見た。


「ときどきなら……いいかもしれません」


空が、少しだけ夕焼けに染まり始めていた。

二人の間を吹き抜けた風が、花と水面をやさしく揺らしていった。



それからも、二人は「ときどき」の約束を続けた。

週末の釣りとひまわりの世話、少しの会話と、たまの笑い。


静かだけれど、心が満たされる、40代の夏。

それは、恋という言葉よりもずっと静かで確かなものだった。