2025年5月29日(木)


春の出会い


四月の風が、まだ少しだけ冷たい。

桜の花びらが舞う校庭を、陽子は窓からぼんやりと眺めていた。


「先生、印刷終わりましたよ〜!」

元気な声が聞こえ、ふと我に返る。声の主は、学年で一緒になったばかりの社会科の先生、渡辺一真だった。


「ありがとう、一真先生。助かるわ」

「いえいえ。こういうの、先輩に甘えないとですね」


少し照れたような笑顔。

年齢は10歳ほど年下。おそらく彼は30代前半。

自分が彼に「先生」と呼ばれることに、まだ少しだけくすぐったさが残っていた。




陽子がこの学校に赴任してきたのは、ちょうど2年前。

その前の数年間は、正直言って「人生の冬」だった。


35歳で結婚したものの、結婚生活は長く続かなかった。

「仕事を優先する君とは合わない」と言われ、別れを告げられた。


子どももいなかった。

「どうしてあのとき、もっとちゃんと話し合えなかったんだろう」

「どうして、あの人を選んだんだろう」

何度も自分を責めて、眠れない夜を越えてきた。


だからもう、恋愛とか、再婚とか、考えないようにしていた。

それよりも、子どもたちと向き合っている方が、ずっと楽だったから。



「先生って、なんだかいつも落ち着いてますよね」

ある放課後、一真がぽつりと話しかけてきた。

「僕、まだバタバタしてばかりで。陽子先生みたいに、余裕ある大人になりたいなあ」


陽子は、思わず苦笑する。

「余裕なんて全然ないわよ。毎日ドタバタ。でもね、若いころよりは、肩の力が抜けただけ」


「肩の力が抜けた大人って、いいですね」

その言葉に、陽子の胸が少しだけあたたかくなった。



週末に、ふたりで教育関係のセミナーに参加した帰り道。

「先生って、どうして教師になったんですか?」

そんな一真の質問に、陽子は少しだけ迷った。


「子どもが、好きだったからかな。でもね、たぶん、今は子どもに教えることで、自分も救われてる気がするの」

「救われてる…?」

「うん。いろんな失敗とか、後悔とか。そんなものを、子どもたちのまっすぐな瞳が、ちょっとずつ癒してくれるのよ」


一真は、黙って頷いていた。

その横顔が、なんだか少し切なく見えた。




数ヶ月が経ったある夏の夕暮れ。

校内の花壇の水やりを終えた帰り道、一真が言った。


「僕、先生のこと、すごく尊敬してます。…それだけじゃなくて、好きなんです」

その言葉に、陽子の時間が一瞬止まった。


「でも私、バツイチよ。それに…年も、けっこう離れてる」

陽子の声は震えていた。

また傷つくのが、怖かった。


「それでもいいです。過去も含めて、先生のことが好きなんです。僕と、ちゃんと向き合ってくれませんか」


その夜、ひとりで泣いた。

嬉しくて、でもやっぱり怖くて。

けれどその涙は、あの離婚の夜に流した涙とは、まったく違っていた。




そして、春がめぐってきた。


卒業式の日、陽子は校庭の片隅で、一真からそっと指輪の箱を差し出された。

「来年の春は、夫婦としてここに立ちませんか」


陽子は笑った。

「もう、年齢的にウェディングドレスとか、似合わないかもよ」

「似合います。僕は、先生の一番近くで見てきたから」


新しい春、新しい教室、新しい一歩。

過去は変えられないけれど、未来は誰と描くかで変わっていく。


再婚は、終わりじゃない。

それは、自分を信じ直すという、勇気のはじまりだった。