「鈴木いづみが生きていれば
山田詠美ぐらいにはなれたかもしれない」
という誰かの言葉をどこかで読んだ。
試しに山田詠美の本を一冊読んでみると
まさに「正当」で、万人に受け入れられるような透明な文章であった。
(しかし内容が思春期の中学生向けに書かれた「推薦図書」の範囲を 出ないところが「ぐらい」と皮肉られた由縁なのだろうけど)
鈴木いづみの小説はその完成度や洗練には全く及ばないが
彼女の小説は最早その人生の断片で、宝石のようでいて実はプラスチックのような(若しくはその逆)
リアルなきらめきを放っている。
鈴木いづみが生きていたとして
その作品が洗練されることはあっただろうか。
洗練はその代償として作品から勢いを奪う。
勢いは熱っぽく私たちに直接訴えるものだ。
いづみの花のような
生っぽい人生の断片として
彼女の"不出来"な小説たちは
最高の形でいるのじゃないか、
と、なんとなく再認識した。
洗練の不要なものもある。
そんな明け方。