秀才と言われて来た人が

知識によった理論で相手を論破する時、

すでに

負けている事に気づいていません。


みんな自己の説が一番可愛く、

一番正しいと思っています。


現代の私達は本でもって(体験出来ない事を)

知ります。


自分は書物や映像でもって

体験したと錯覚して、

それが事実であるかのように見ます。


自分が体験しない事を

人に伝える人は

頭善人、口善人…と言われています。


だから

体験と挫折を伴わない知は、

それが国によって、

気候によって、

各地の植生が違う事を知らず、


同じ秋でも、

冬でも地球上の場所により、

太陽の位置の高さが違う事を体験せず、

一律に

感情で論じてしまうに似ています。


人は皆

それぞれの魂の透明度も

色も輝きも違う事を知らず、

一くくりにして

現実を論じる論者は学者ではありません。


人を権威で導こうとして、

自分は偉いといつもグリーン車を

要求してくる事でしょう。


人格は論の格調をも高めます。

つまり使われている言葉が美しい。

少しくらいの悟りがあっても

先人の歩みは清く高く、

及ばない事を知って

自分を賢者とみなしてはいけません。


少々の悟りや少々の神通力では

釈迦やキリストには遠く及びません。

まだ…まだまだです。


六十歳にして一から出直し、

八十歳にしてまた一から出直し、

次の転生でまた一から出直し、

怠ける事なく、

おごりに気をつけて

止まる事少なく七生は…

歩めと言われいます。


konishi.M