いきなりですが、皆さんは「自分が天才だったら良かったのになぁ…」と思うこと、あるでしょうか?まぁ、普通はありますよね。勉強、運動、仕事などといった「能力の発揮を求められる場面」において、成果を出したり状況を良くしたいと思うのに自分の能力が足りずに行き詰る、なんてときにそう思うことがあるかと思います。

かといって普通の人間にはそんな天才的才能はないので、「天才だったらなぁ…」と夢想はすれど、実際には自分のできることを積み重ねて何とか足掻くしかないわけです。そしてそれが苦しいから、「凡人」という言葉は「特に優れた点や特徴をもたない人」というあまり良くない意味で使われます。

ちなみに私は自分のことを「凡人 of 凡人」、凡人中の凡人だと思っています。子どもの頃は運動も勉強も平均よりは上でしたが、あくまで「そこそこ」。文系科目は得意ですが、理系科目は苦手。音楽や美術といった芸術的感性は平均以下。昔から中肉中背で比較的体格には恵まれている方といえるかもしれませんが、耐久力が低くケガや病気が多い上に、顔も別にイケメンではありません。

そんな感じで能力値に多少の凸凹はあれど、トータル的には±ゼロ。ずば抜けて高い能力がない代わりに、致命的に低い能力もない。努力したことはそれなりに手に入るけど、努力せずに手に入るものもなし。なんでもそこそこ。可もなく不可もなく。凡人中の凡人なわけです。

というと、私の今までの歩みを知る人の中には「いや、お前は違う」と言う人もいるかもしれません。無茶苦茶な経歴で好き勝手やってるのに死なずに生きてられる人間が凡人なわけあるか、と。

でも、実はそれって「凡人だからこそ」なのです。「自由人」とか「頭おかしい」とか「天上天下唯我独尊男」などと言われてきた私ですが、私が好きに自分の道を選んで、好きに歩んでこられたのは、「凡人だからこそ」です。

普通、「天才」というのはある分野に対して特別高い能力を持った人を指します。(超スーパーウルトラ激レアキャラとして「万能の天才」というのもいるかもしれませんが、そういうのは規格外過ぎて論外なので、ここでは無視します)

例えば「音楽の天才」がいたとします。モーツアルトとかベートーベンとかみたいな。もし彼が音楽に携わることがなかったとしたら、自分も周りも彼に音楽の才があるとはわからず、彼は才はあれど天才と呼ばれることはありません。

しかし彼が音楽に触れる場面に出会って卓越した才を発揮したら、周りは「彼は天才だ」と言うでしょう。彼自身は自分を特別とは思わないかもしれませんが、少なくとも「音楽が得意」くらいには思うでしょう。そして、その得意な領域で人並み以上の成果を出せることを知り、音楽を職業にしていくでしょう。

これは別に天才に限らず、天才には届かないものの能力が高い人全般にいえます。ある分野にある程度高い能力や適性があると自分で思えば、それを活かした職に就こうとする。特にその職業や会社に就くことで高い給料をもらえる可能性が高ければ高いほど。せっかく自分の能力が高い給料を稼げそうなのだから、それを活かさない手はないだろう、と。

では、そのときにもし「自分の能力や適性はあまりないけれど、大好きな分野」があったらどうでしょう?まぁ、周りに相談したら普通は「給料の高い方へ行け」「自分を確実に活かせる方へ行け」と言われるでしょう。確かに「成功する」ことの確率論で言えばそのとおりです。その人にとってどちらが良いのかはその人の価値観次第としか言いようがありませんが、「好きだけど食えるかわからない職より、確実に食える職」を選ぶ人の方が大半でしょう。

このことから言えるのは、天才や、天才ほどではないけど能力が高い人というのは、「自分の得意領域を活かす分野に誘導されやすい」ということです。別にそれが悪いわけではありません。自分を活かす、大いに結構なことです。

ただ、先程挙げた例のように「得意分野と好きな分野が違う」場合は悲劇です。もし自分が好きな分野の方に進もうとしても、いろいろと周りからの干渉があるでしょう。極端な話、天才的な医者で確実に多くの人を救えると思われる人が、「好きだから」という理由でまったく違う道に進んだら、「たくさんの命を救えるのに!」「自分と能力の無駄遣いだ!」と言われてしまう可能性は高いです。

医者と言うのは極端すぎる例だったかもしれませんが、特別な才を持つ人というのは、本人の望む/望まないに関わらず、その才を発揮することを周囲からはもちろんのこと、自分自身からも無意識的に求められます。それは、才というものを与えられてしまった対価、宿命といえるかもしれません。

では、今回のテーマである「凡人」だったらどうでしょう?特別秀でた才がない。その代わりに特別できない才もない。多少の得意不得意はあれど、努力に応じてある程度のことはできるようになる。要は私みたいな人間のことですが、そういう人間はどうやって自分の道を決めればいいか。良くも悪くも特別な才がないのであれば、「才を活かす」という道がないからこそ…

「好きなことやれ」「思うがままに進め」(笑)

一般的には天才はずば抜けた能力があるから自由、凡人は特別な能力がないから不自由、と思われがちですが、このことからわかるように実は逆だったりします。凡人は特別な才を与えられていないからこそ、その対価や宿命と無縁でいられるのです。

もちろん天才だって本来は自分の道を自由に選んでいいです。しかし、「自分の才を活かす」ということに捉われやすいのも確かです。対して、凡人は特別突出した才がなく「この道にした方がいい」も「この道は止めた方がいい」もないからこそ、何かに囚われることなく数多の道の中から自分の好きに、自由に選ぶことができます。だって、どの道を選んでも成功確率に大差ないんですから(笑)

つまり、自分が「凡人である=特別な才がない」ことを嘆く必要などなく、むしろ「よっしゃ~、俺ボンジ~ン!俺は自由だ~~~!!!」と喜んでいいのです。自分がやりたいことを選ぶ。どうせどれを選んでも結果はわからないのだから。

医者の家に生まれたので医者に、政治家の子に生まれたので政治家に、というシガラミを不自由だと思う人は多いでしょう(羨ましいと思う人もいるとは思いますが)。それと同じで、天才もまた本人の自覚のあるなしは別に、天才に生まれたので天才に(その才を活かす職に)、というシガラミがあるのです。

逆に、凡人に生まれた、というのは「シガラミの少ない才を持った」でもあるのです。だったら、その才を活かして自分の道を好きに選んで自由に生きればいいんじゃないかと。凡人ゆえに自由で、何者にでもなれる、無限の可能性や選択肢を持っているのですから。

また、凡人だからこそ失敗を過度に恐れる必要もありません。先天的に才があるわけじゃないのですから、後天的に失敗経験から学べばいいのです。むしろ凡人なんですから失敗からしか学べないんです。失敗とは「失敗することではなく、失敗から学ばないこと」ですから。天才は失敗しないと思われてしまいますが、凡人なら失敗なんて普通のことです。

失敗を笑われたって、それは失敗すらできない者が笑っているに過ぎません。転んだら起きればいい。転ぶのは進んでいるからです。止まっている者は転びません。ただ、転ぶのを嫌がって進まないのは凡人以下ってだけで。

凡人ゆえの自由!凡人ゆえの無限!凡人万歳!神様、私に特別な才を与えないでくれてありがとう!

 

そんなわけで私は、「凡人自由論」者として「凡人賛歌」を胸を張って謳い、私という凡人による凡人のための凡人の人生を今日も謳歌するわけです。