GW中でも普段の日でも、コロナがあってもなくても、教室を出て家に帰ればTVなし、車なし、ネットなし、携帯使わない、という現代人とは思えない仙人生活をしております、マンモスコーチです。皆さん、こんにちは。

さて、今日は「待つ」ということについて少し話をしてみようかなと思います。なんでそんな話をするかというと、一つには「待つ」というのは私のような職業的なコーチや教師だけでなく、子どもを相手にする上ですべての人、すべての場面で必要になると思っているからです。

もう一つには、便利さや早さを追い求めてきた歴史の先端に立つ現代人にとって、その弊害として「待つ」ということが非常に苦手になってるんじゃないかなと思うときがありまして。

 

便利になったがゆえに次はこれだ、次はあれだと仕事も生活も次々と更新される情報に追い立てられ、またすぐ手に入る様々な気晴らしが自分の周りに溢れかえっているのもあって、時間をかけてゆっくり、じっくり何かに取り組むというのが少なくなっているんじゃないかな、と。まぁ、そんなこと思うのは私が仙人生活なんてしているせいかもしれませんが。

そんなわけで「待つ」ということについてですが、私が考えるに「待つ」には以下の三つの形態があります。

 ①何もしないで待つ
 ②何かをしてから待つ
 ③何かをしながら待つ

まず「①何もしないで待つ」ですが、自分が望む状況に自然に/勝手になることを何もしないで待つ、要は「エサくれと口を開けているだけ」の待ち方ですね。まぁ、ハッキリ言って論外です(笑) 何もしないで待っているだけで自分に都合の良い状況になるなら、それで欲しいものが手に入るなら、人間こんなに苦労して生きる必要はありません。

でも、この1年のコロナ禍の状況を見ていると、中には「誰かが何とかしてくれる」「待ってりゃ勝手に収まる」「だから自粛・自重なんて俺はしない、好き勝手にやらせてもらう」という考えの人がそれなりにいて、そういう人というのは自分の人生を①の待ち方で生きているんだろうなぁ…と思ったりもします。

でもそれって、自分の人生を生きているようで、実は社会が与えてくれる娯楽とそれに反応する快楽欲求に基づいて動いているだけで、本来の人間的/個人的な思考や意志はそこにはないんですよね。まぁ、その人がそれでいいというのであれば、それも一つの生き方なのかもしれませんが、私は自分が見ている子どもたちが将来そういう大人になってしまったら、正直悲しいですね。

次に「②何かをしてから待つ」ですが、やるべきことをやった上で待つということですから「人事を尽くして天命を待つ」ですね。一生懸命勉強してテストに取り組み、テストが終わって結果を待つときがこれです。なにせテスト終了後にテストの点を上げる努力はできませんからね。もしそれができたら不正行為です(笑)

こういう場面は、テストに限らず人生においてよくあります。人間社会というのは法律であれ、契約であれ、私的約束であれ、約束を守るという信頼関係を前提にして成り立っています。そしてそういった約束事というのは、大抵期限や締め切りといった条件があります。だから期限や締め切りまでは一生懸命それを遂行し、タイムリミットが過ぎたら「人事を尽くして天命を待つ」ことになります。

そういうとき、「やるだけのことはやった」と納得して待っていられるか、「ああしておけば…こうしておけば…」と後悔や未練を抱えて待つことになるか。これは究極的に言えば、すべての人間に等しく与えられ、絶対に逃れられないタイムリミットである「生と死」についても言えることです。

 

死ぬときに「やるだけのことはやった」と納得して死ねるか、「ああしておけば…こうしておけば…」と後悔や未練を抱えて死ぬことになるか。私は前者の死に方をしたいですし、子どもたちにもそうであってほしいと思っています。

最後に「③何かをしながら待つ」ですが、これは期限が定められていないものについて、もしくはその期限内での在り方についてのことになります。②が約束という「人為的/社会的な」事柄に対することであったのとは対照的に、この③は「自然的な」事柄に対することと言えます。

例を挙げるなら、「期限が定められていないもの」として「子どもの成長や教育」が挙げられます。子どもの教育には確かに1年生でこれを、2年生でこれを、と学校教育などは定めていますが、それは学校組織や学習指導要領という「人為的/社会的なもの」が、ある意味勝手に作ったものです。

 

子どもたちの生そのものには区切りなどありません。そもそも同じ学年でも誕生日は最初と最後じゃ1年違いますし、能力や技術の習得速度や性格の方向性などはそれぞれ個々にバラバラです。外部からの区分規定など関係なく、ただその内部に連続した生が絶え間なく流れていくだけで、それは「人為的/社会的な」"事柄"である前に「自然的な」"存在"であることと言えます。

たとえば「人に迷惑をかけてはいけません」「困っている人がいたら手を貸してあげなさい」、これらを教えるのに何歳までという期限はありません。比較的早くそれを理解&実行できる子もいるでしょうが、そうでない子もいます。

では、そうでない子には一定の期限までにそれを理解できなかったらもう教えないのか。そんなわけはありません。その子が理解するまで、何度でも何度でも、様々な手を尽くしてそれを教えます。そうでなければ、その子は非常に苦しい生き方をすることになりますから。この「その子が理解するまで」が「③何かをしながら"待つ"」という意味です。そこには人為的/社会的な期限などありません。

ちょっと小難しい話になってしまったかもしれませんが、以上の①~③を簡単に例えるなら

 ①何もしていない、何もないところに花が咲くのを待つ
 ②種を植えるまでは頑張って、あとは自然に花が咲くのを待つ
 ③種を植えた後も世話をしながら成長を見守り、花が咲くのを待つ

といった感じでしょうか。そして、子どもたちにとって必要なのは③です。確かに「親は無くとも子は育つ」とも言いますが、子どもたちがより健やかに成長し、自ら花を咲かせるには①は論外、②でも不十分で、③が必要です。

とまぁ偉そうに言ってみましたが、「そりゃそうだ」って話ですよね(笑) 虐待とかでもない限り、普通の親御さんや大人たちは日々子どもたちの世話をきちんとしています。

ただ、ここに一つ見落としがちな問題がありまして。「種を植えた後も世話をしながら」というのは普通の大人は皆やっています。日々頑張って。ただ、「成長を見守り」「花が咲くのを"待つ"」というところは、実は意外と盲点だったりします。

今回、最初に「便利さや早さを追い求めてきた現代人にとって、「待つ」ということが非常に苦手になってるんじゃないか」と書きました。どんなに世話をしても、どんなに手を尽くしても、子どもというのはすぐに成長するわけではありません。理解するにも、吸収するにも、時間がかかります。何かを教えればすぐそれができるようになる、というわけではないのです。

それは花に多くの水と肥料と日光を与えれば、その分成長が早まるか?というのと同じです。むしろ、それらを多く与え過ぎれば、過ぎたるは及ばざるが如し、かえって逆効果です。じゃあ、すぐに成長するものを育てよう。早く成長する部分だけ育てよう。「待つ」を苦痛と感じてしまう人はそう考えてしまいますが、それで成長するのはせいぜい「カイワレ大根」くらいでしょう。

カイワレ大根ならちょっとの手間で1週間ほどで最終形にまで成長します。その手軽さから昔、私は夏休みの自由研究で「カイワレ大根の観察記録」というのをやりました。 手軽に、簡単に、確実にできるからです。要は手抜きのやっつけ仕事です(笑) でも所詮は"カイワレ大根"であって、1週間で種から芽が出て花を咲かせる"桜"はありません。桜が花を咲かすには最低でも種から数年、下手すりゃ10年、数10年とかかるそうです。

 

ちょっとの手間や短い時間で成長するもの、手に入るものというのは、大抵は「その程度の価値」しかありません。大きな価値のあるものを手に入れようと思えば、それだけたくさんの手間や長い時間をかけて取り組まなければなりません。ゆっくりと、じっくりと、何度でも、根気よく。

人間は便利さを追求してきました。それが文明といっても過言ではありません。そして便利さは"早さ"を生みました。産業革命以後、時代の変化は加速度的に速くなっています。それ自体を否定するつもりはありません。それによって救われた人間が数多くいるのも確かです。

しかし、子どもを育てるというのは、便利さと早さを競うものではありません。どれだけ上手くできたか、どれだけ早くできたか、それを競うコンテストではありません。また、幼稚園や学校への在籍期間、学生期間、未成年の間、そういった期限があるわけでもありません。その期限内をいかに上手くやるか、その期限内でいかに上位に入らせるか、そういったものでもありません。学生期間が終わったら、20歳過ぎたら、その子の人生は終了、ではありません。

むしろ、そこからが人生の本番です。それからの人生をその子が生きていけるように、自分の力で人生を切り開いていけるようにすることこそが大事です。それに比べたら子ども時代の"便利さ"や"早さ"、ましてや順位なんて、大した価値はありません。

子どもの成長を無理に急かせば、育つのはカイワレ大根のようなひょろひょろな姿です。むしろしっかり時間をかけて、地面にガッツリと根をはるのを待つ。そうすれば簡単には倒れず、延びた枝葉から自ら光合成できる大樹に育ちます。急いでは大樹は育ちません。急いては事を仕損じる、です。じっくり、しっかり、世話をして見守り、「待つ」ことで、少しずつ成長し、いつか大樹に育って葉が茂り、大輪の花を咲かせるものです。

その子の人生の「今」だけを見るか、その後の「何十年」を見据えるか。横断的にある一時期での他の子との比較でその子を捉えるか、縦断的にその子の誕生から死までで捉えるか。それによって育て手の育て方は変わります。ただ、「待つ」ことができない人は「今」しか見ないでしょう。

うちに入ったスタッフが最初に受ける口頭研修では、コーチ業とは「子どもとの我慢比べ」と教えています。能力も性格も、教えてすぐに変化や結果が出るわけではありません。ひたすら子どもとの我慢比べです。でもだからこそ、大人が子どもに負けてはいけません。

 

子どもたちだってすぐにできるようにならない自分を悔しく思い、我慢している。だったら、それに付き添う大人が先に根を上げてはいけません。根負けしてはいけません。子どもより我慢ができない大人なんて、大人を名乗る資格はないでしょう。

どんなに世の中が便利になっても、早くなっても、「待つ」ことこそ大事な領域というのがあります。現代人が忘れがちな「待つ」。ネットで申し込めばすぐに品物が届く。SNSを開けばすぐに友人たちと繋がれる。何かをすればすぐに反応や結果が手に入る。だから待ちたくない、待てなくなる。待ちたくないから待たなくていいものだけをやる。

 

でも人生において大事なのは「何を手に入れるか」であって、「どのように、どのくらいの期間で手に入れるか」はあくまで手段や過程に過ぎません。それを見失うと、きっと本末転倒になってしまうことでしょう。

 

自分も含め、大人たちがしっかりとそれを意識して、「待つ」ことを楽しみながら子どもと接し、子どもを信じて、急がず焦らず成長を見守ることができれば、子どもたちはきっと様々な花を咲かせてくれると、私は信じています。