当教室は体育教室ですが、脳みそまで筋肉な子どもを育てたり、精神論だけでどうにかしようとするような体育会系バカな指導はしません。運動にだってインテリジェンスは重要です。生きることとは学び続けること、人間死ぬまで勉強です。というわけで、今日も一見体育とかけ離れた歴史のお勉強、行ってみましょう♪

 

さて、今日は前回の『平家物語』から歴史的には続きとなる『吾妻鏡』です。

この『吾妻鏡』は源頼朝の挙兵に始まり、鎌倉幕府の成立、その後の幕府の動きが元寇手前の頃まで書かれています。なぜそこまでなのかというと、その頃に『吾妻鏡』が鎌倉幕府によって編纂されたからです。つまり、この『吾妻鏡』は物語ではなく、鎌倉幕府による公式記録集なわけです。

となると当然、内容は鎌倉幕府にとって都合よく書かれていて、逆に事実であっても都合の悪いことは書かれていない or 改竄されていると考えられます。なので、そういう面があると踏まえて読んでいくべきなのですが…。

これ、ホントに鎌倉幕府が編纂したの?
都合の悪いとこ相当抜いたはずだけど、それで「これ」なの?(呆れ顔で)

いや、とても鎌倉幕府にとって都合の悪いことを抜いた記録とは思えないんですよ…。だってこれ、どう読んだって「ヤクザかヤンキーの抗争物語」にしか見えませんよ?タイトルつけるなら「実録!鎌倉幕府の仁義なき戦い」!なんか三流週刊誌のゴシップ記事のタイトルみたいですが、マジでそんな感じなんです。

確かに幕府に敵対したから倒した、謀反起こそうとしたから倒したって例もあるのですが、「あいつ、最近ちょっと調子こいてね?邪魔だし、ちょっとヤっちゃおうか?」「もしあいつが謀反起こすとやべぇな。じゃあヤられる前に先にヤっちゃう?」と勝手に疑って勝手に謀反の嫌疑かけて勝手に謀殺したというのが多い多い…。

まず頼朝の時代。
初期には「あいつ、うちで一番多い軍もってるよね?あいつが謀反起こしたらヤバくね?」という理由で頼朝の命によりヌッコロされてしまった上総介広常さん。後で嫌疑となったことがただの濡れ衣だったとわかり、頼朝「ゴメンね、テヘペロ♪」。ちなみに甲斐源氏の皆様も同じような理由で超冷遇されます。

これだけでもドン引きなのですが、頼朝と言えば平家キラーというより源氏キラー(笑)

「親同士の仲悪かったし、あいつ邪魔だし、上皇もそうしろって言ってるから」という理由で殺された従兄弟の木曽義仲さんに、「生かしておいたら将来仇討ちされそう、俺がやったみたいに」とまだ少年だったのに殺された息子・義高くん。ちなみに義高くんには頼朝の娘・大姫が超懐いてて、このショックで心身共に病んで父・頼朝を恨んで早死にします。

腹違いとはいえ弟なのに「あいつ、やたら人気あるし、戦上手いし、俺の立場がないよね?」という理由で徹底的に冷や飯食わされた挙句、使い捨てられて殺された源義経さん。ついでにもう一人の弟、範頼さんもイチャモンつけて流刑にしてから謀殺してます。あと叔父にあたる行家さんとか義広さんもいろいろモメた挙げ句、殺っちゃってます。

こんな感じで自分の身内ヌッコロしまくりの将軍頼朝ですが、広常さんの件はともかく、まだ頼朝自身は部下に厳しいものの優秀な者や忠義を尽くす者は大事にしていたフシがあります。本格的な「仁義なき戦い」が始まるのは頼朝の死後です。幕府の有力者同士で散々に争い合います…。

まず目をつけられたのは、義経ら多くの者をその讒言(虚偽の密告)によって陥れた梶原景時さん。まぁ、この人の場合かなり自業自得なのですが、追い詰められて一族皆殺しの憂き目に。

次に目をつけられたのが、なんと実直・誠実・実力を兼ね備え東国一の武士と言われた忠臣・畠山重忠さん。ありもしない謀反の疑いをかけて、証拠もなしに大軍派遣して潰すという念の入れよう。

畠山さんをハメたのはさすがに周りから非難GOGOで、頼朝の義父(妻政子の父)にしてこの件の首謀者だった北条時宗は殺されこそしないものの事実上の島流し状態で完全隠居させられます。

その後も比企、和田、三浦、千葉など、鎌倉幕府初期の主な重鎮だった一族はその多くが味方同士で「仁義なき戦い」やって滅びます。完全に「昨日の味方は今日の敵」状態。アホですね。

そして何より、頼朝の実子の二代目将軍・源頼家、三代目将軍・源実朝。「そういえば鎌倉時代って、いつの間にか源家から北条家にトップ変わってたよね?」と思う方が多いかと思いますが、それもそのはず。頼家、実朝ともに暗殺されちゃってますw 平家を源氏が滅ぼしたように外の敵にやられるのならまだしも、幕府内の内部抗争でトップが二代続けて身内に暗殺されてお家断絶ってどうなのよ?

こんな感じで初期から一貫して権力争いの内輪もめを繰り返した鎌倉幕府。「いざ鎌倉」とか「一所懸命」とか「御恩と奉公」とか言ってますが、中身は酷いものです。鎌倉幕府の公式記録でこれですから、都合が悪くて削除&改変された部分があることを考えると、もう弁護も情状酌量の余地もないほどのグダグダっぷりです(笑)

ここで疑問に思う人もいるかもしれません。「鎌倉時代からが武士の時代でしょ?でもどこに武士道があるの?」と。
 

はい、お答えします。この時代に「武士道」なんてものはありません(笑) 少なくとも源氏にそんなものはなく、むしろ壇ノ浦で潔く討ち死にや自害をした平家の方がまだあったかもしれません。(清盛の三男で平家の総大将だった平宗盛は生き残ろうと無様な姿を晒してますが)

そもそも今の私たちが考える「武士道」の形は、実は江戸時代に出来上がったものだったりします。その成り立ちや変遷についてはそれだけで1シリーズになっちゃうのでここでは省きますが、鎌倉、室町、戦国と武士同士が仁義も忠もあったもんじゃない泥沼の抗争を数百年繰り広げ、それを最後にまとめた江戸幕府が「これ、武士の道徳心なんとかしないとヤバイよね」となって、武士の美徳である「武勇」に儒教道徳や仏教的信条などを織り交ぜて広めた文化が「武士道」なわけです。(江戸幕府が一方的に作ったわけじゃないのですが、それを推奨して上手く利用したのは確かです)

というわけで、「鎌倉幕府の公式記録なのに身内争いしまくってグダグダ&泥沼な仁義なき戦い」「武士道?そんなもの知らん。勝ちゃあいいんだよ、勝ちゃあ」というのが『吾妻鏡』で、感想をまとめると「平家の方がマシなんじゃね?」(苦笑)

さて、次回は最後『太平記』です。まぁ、これもグダグダなんですが…身内・仲間同士で争いまくった『吾妻鏡』よりはマシっちゃマシ…かもしれません(笑)

それでは、また次回♪