国立新美術館の「ルノワール展」を見に行く→ついでに美術館周辺を散歩→
→戻ってきて帽子屋行ったら気に入った帽子があったので買う→
→最近のトレーニング疲れ&今日の歩き疲れでマッサージに行く→
→いつものBARに飲みに行く
と、我ながら完璧とも言える充実した休日を過ごしたマンモスコーチです。
皆さん、こんにちは。
ここ最近、以前の停滞感というかグダグダ感が嘘のように晴れて、充実してます。
以前にも少し書きましたが、ここ半年ほど、もうすぐ40になる節目の年ということを中心に、
これまでの自分に足りなかったことや怠ったりしてきたことを振り返って考えたり、
これから先の自分のビジョンが描けず進むべき方向が見えずに迷い悩んだりと、
「四十にして惑わず」という孔子の言葉とは真逆の40代を迎えそうになっていました。
が、「災い転じて福となす」「雨降って地固まる」「明けない夜はない」などの言葉があるように、
ギリギリ40直前にそのトンネルから抜け出すことができたように思えます。
まぁ、思い返せば20歳前後、30歳前後でもそれぞれ暗く長いトンネルにハマり、
それでも何とかそこを抜けて自分の生き方を見出してきたわけで。
どうも私の場合約10年ごとにこういうことがあるようです。
いわば「人生の棚卸」とでも言えばいいでしょうか。
まぁ、20、30のときは基本的に「この先自分が進む道=未来」が問題の中心だったのに対し、
今回は同時に「これまで自分が進んできた道=過去」に対する総括も含んでたというか、
やはり「棚卸」という言葉が一番しっくりくるような、そんな感じがありました。
例えるなら、今までが衣替えや部屋の模様替えみたいなものだったのに対し、
今回は引っ越しレベルで押入れの一番奥にあるものや
自分が持っていたことすら忘れてたようなものまで全部一度外に出して整理し直した、
といった感じでしょうか。
そうすると途中から、どこから手を付けていいかわからないくらい
部屋の中がグチャグチャになるわけですが、まぁ、それがこの半年間だったのかな、と(苦笑)
大学院時代の自分の言葉を使えば、
「エントロピーの増大とそれに伴う自己組織化」といったところでしょうか。
うん、いくらかつての自分が研究していたことであっても、それを研究対象として考えるのと、
自分の身に降りかかって主観的に捉えるのとでは、やっぱり全然見え方違うよね(笑)
学術的に研究するのも確かに大事だけど、それを踏まえた上で、
フィールドワークとも異なる「直接的な入り込み」ってのはやはり大事なわけで。
そう考えると、学術の道から体育コーチに転身したかつての自分の判断は
決して間違ってはいなかった、と思えます。
実際この半年の間に、自分が間違っている/いたんじゃないかと、何度思ったことか。
もし間違っている/いたのであれば、
そうした自分を捨てるなり、決別するなりしなければならない。
でも今の自分が思うのは、「自分は間違ってはいなかった」。
だから、今までの自分を捨てたり、別の自分を作ろうとするのではなく、
今までの自分の蓄積を信じ、その延長として自分をバージョンアップさせ、進化させる。
それが40直前にして自分に対して決めた、これから進むべき道です。
ここに思い至るまでにはいろいろな思考過程があったわけですが、
プラスの方向に持って行けた要因として二つのことがありました。
一つは前々回のラストでちょっとだけ書いた「自分にカッコつける」ということ。
これは20歳になるかならないかの頃からの自分の信念なのですが、
要は「他人にカッコつけようと思っても、人によってカッコ良さというのは十人十色、
他人にカッコつけようと思ったら別の人に会う度に自分の形を変えなければならない。
だったら、自分がカッコいいと思う形に自分がなることを追い求めていけばいい」
という考え方です。
まぁ、友人に「天上天下唯我独尊」と言われたこともある、
確かにある意味危険な側面もある考え方なのですが(苦笑)、
それでもこの考えとそれに基づく行動によって自分という軸ができるのは事実です。
前回、前々回で書いた「体が動かず口で指示出すだけのコーチ」や
「自分自身にやり残しがある」というのは「カッコ悪い自分」なわけで、
だから「カッコいい自分」になれるよう、現役選手じゃなくてもトレーニングをするわけです。
もう一つはオープンから今までの教室のこと。
自分が今までの自分を否定しきらずに済んだのは教室のおかげだと言えます。
今、教室にはうちの指導を良いと思ってお子さんを通わせてくれる保護者の方々、
実際に教室に来るのを楽しみにしてくれている/来て楽しんで練習してくれる子どもたち、
そしてこんな自分についてきてくれるスタッフたちがいます。
私が今までの自分を否定するということは、
そうやって多くの人が支持してくれる教室と、それを作った自分を否定することになります。
そしてそれを否定するということは、そうした人々の思いまで否定することに繋がるわけで。
私がどんなに思い悩んでいても、子どもたちはいつも通り、屈託なく接してきてくれる。
大人には大人の悩みがあるように、子どもにだって子どもなりの悩みがある。
保護者の方たちにも親としても個人としてもそれぞれ悩みがあり、
スタッフたちにも教室の内でも外でもそれぞれの悩みがある。
でも、その人たちはこの教室を良いと思ってくれている。支持してくれている。
だったら、その場と内容を作った俺自身が自分を否定して、教室を否定してどうする?
足りないところは努力して補えばいい。悪いところは反省して直せばいい。
でも根本にあるものを否定する必要はない。少なくともそこは間違っていないはず。
だから、自分を否定して作り直すのではなく、今までの自分を更に発展・進化させればいい、と。
主にこの二つの要因をメインエンジンとして、最終的には
「俺の今までの人生、貴様ごときに否定されるほど安っぽくも、甘っちょろくもなかったわ!!」
とある意味開き直り的な復活を遂げることができました(笑)
(なんか偉そうに「貴様」とか言ってますが、「貴様=自分を否定する自分」なんで、
結局「自分を否定する自分を否定する」というややこしい事態になってます)
こうして、危うく自分の誇りを見失いそうになりながらも、無事生還できたわけです(苦笑)
これがもし、教室の運営も上手くいかず、子どもにもスタッフにも見放され、
今頃教室廃業なんてなってたら、自分自身を支えきれたかどうか…無理だったかも。
本当に保護者の皆さま、子どもたち、スタッフのみんなに感謝です。
「四十にして惑わず」とまでは難しくとも、「人生の棚卸」はなんとか無事終えて、
この先自分のやるべきこと、進むべき道は大まかにですが見えた気がします。
まぁ、自分の生き方の「悪い癖」もなかには残っているかもしれませんが、
人生すべてが都合よく行くものでもないし、良い面も悪い面も時と場合によっては裏表。
直せるところは直し、直さない面はそれもまた自分で選んだ生き方と思って
受け入れて生きていくべきなんでしょう。
人生、「良いとこ取り」だけができるものでもありません。
「武士道とはやせ我慢と見つけたり」と言いますからね(笑)
最後に。
たぶんこういう「人生の棚卸」的なことは誰にでもあることだと思います。
ただ、意外と見落としがちなのは、この手の悩みは「余裕があるからこそ感じる」ということ。
余裕がなければ、そんな抽象的・包括的な悩みではなく、もっと具体的な悩みになります。
例えばうちの教室に全然会員がいないとしたら、どう宣伝するかで悩む、というように。
一方、「棚卸」的悩みは、それぞれがそれなりに上手くいっているにも関わらず
互いに噛み合っていないか、全体が一種の飽和状態にあることによって生じます。
だから全体を一度再構築しなければならず、それに必要なのが「棚卸」なのだと思います。
ただ、そうは言っても悩みは悩みなわけで、辛く苦しいのは同じです。
むしろ「棚卸」的悩みは抽象的・包括的な分、具体策を講じにくく、
自分自身の内面を掘り起こして再構築するため外からの直接的援助は難しい面があります。
いわば、自分自身と誰の助けも借りずに戦うしかない、孤独な戦いです。
しかし、先ほども述べたようにそれは「余裕があるから感じる」悩みであり、
その余裕がある状態にまで辿り着けたのは自分がそれまで頑張ってきた成果です。
40代というのはこの「棚卸」的悩みを感じる人が多くなる年代らしいです。
なので、これを読んでいる保護者の皆さまや、私の友人たちも
それに当てはまるときが来るかもしれません。
もう済んでいる、または私のようにウジウジ悩むことなく突破できたのならいいのですが、
もし同じように「棚卸」的悩みを感じることがあれば、
それは「今まで自分が頑張ってきた成果」であり、
だからこそ辿り着けた「次の段階への準備期間」なので、
そこまで辿り着くことができた自分自身を信じて、立ち向かってみてください。
パターンからして、10年後にまた「棚卸」的悩みに陥るだろうから、
そのときは自分もまたこの文章を読み返すことにします(苦笑)