「ゴジラ-1.0」
キャスト:神木隆之介、浜辺美波、山田裕貴、青木崇高、吉岡秀隆、安藤サクラ、佐々木蔵之介、ほか
脚本・監督:山崎貴

あのゴジラの「生誕の物語」かと思って観たのですが、どうやらそうではなさそうで…。
それほどゴジラ映画を見たことはなく、ゴジラは怪獣というイメージが強いのですが、この映画で描かれるゴジラは主役であってそうでもない感じがして、怪獣なんだけど怪獣としてのゴジラを描いているのではない、みたいに思いました。
パンフレットによると、ゴジラ映画って「シン・ゴジラ」が29作目だったようです。
ということは、この作品は記念すべき30作目ということですね。

ちょっと想像していたお話とは設定が違って戸惑いました。
30作もあるゴジラは、いずれも同じゴジラを描いているとは限らないようですね。
ゴジラそのものが、人間が作ってしまった怪獣であったり、海に棲む海獣のような存在だったり。
今作のゴジラ(呉爾羅)は「伝説の怪獣」として登場しました。

時は第二次世界大戦末期の1945年、大戸島の守備隊基地から物語が始まります。
機体故障で修理のため島に零戦を着陸させた敷島。
点検するも故障個所が見つからないことに不審なものを感じる橘。
その夜全高15mに及ぶ巨大な生物が基地を襲撃し、橘に零戦の武器で生物を撃てと言われた敷島は恐怖で撃てず、基地にいた整備兵は橘を残し全員が死亡した。
終戦後、故郷の東京へ戻った敷島は自宅が焼け、家族が全員亡くなったことを知る。
ひょんなことから、見知らぬ他人の赤ん坊(明子)を抱えた典子と知り合い、共同生活を始める。
やがて機雷撤去の仕事を見つけ、その作業を行う「新生丸」の仲間と苦しいなりにもそれなりに楽しく暮らすようになる。
しかし大戸島で生き残った罪悪感に苦しむ敷島は自分が幸せになる資格はないと思い、典子に想いを伝えられない。
時を同じくして、ビキニ環礁での米軍による核実験により、近海を回遊していたゴジラが被爆し、巨大化したうえに凶暴な怪獣に進化してしまう。
太平洋で次々にゴジラに襲撃され沈没する米国船舶。ゴジラは刻々と日本に近づいていた。
「新生丸」は近づくゴジラの足止めを命じられるも、歯が立たない。
敷島は機雷をゴジラの口に投げ入れ、機銃で爆発させることでなんとか一旦は撃退したように見えた。
しかし倒したと思ったゴジラは劇的な細胞再生能力を発揮し、即時に完全に復活する。
そしてゴジラを倒すべく到着した重巡洋艦の高雄は、ゴジラにより沈没させられてしまう。
この戦いで気を失った敷島は病院で目覚める。
ゴジラは東京に向かっているが、政府は国民にその事実を知らせないという。
敷島は自宅に戻り、典子に自分の過去と苦悩を話し、自分は生きていてはいけないと気持ちを吐露する。
典子は大きな愛で敷島を受け止める。
ついにゴジラは東京に上陸する。銀座で働く典子を心配し、敷島は銀座に向かう。
何とか典子に会えたものの、ゴジラはすぐそこまで来ており、ゴジラが発する熱風により典子が吹き飛ばされ行方がわからなくなった。
暴走するゴジラを制圧するべく、新生丸の仲間である学者の野田が考案した「海神作戦」が実行される。
敷島は大戸島で出会った橘を探し当て、ある依頼をし、野田の作戦の援護を行う。
やがてゴジラは相模湾に現れ、人間とゴジラの戦いが始まった。

あぁ、長いあらすじになりました。
パンフレットのあらすじが丁寧過ぎて…。

「シン・ゴジラ」を観た時もゴジラは特に悪くないよな、と思ったのですが、今回も、ゴジラこそ運が悪い、と思いました。
自分に攻撃する「敵」に立ち向かいやっつけようとするのは、普通のことなんだから、と。
どういうつもりで人を襲うのかが、今一つわかりませんし、今回のゴジラは放射能によって巨大化したので、自然に生息する生物とは少し異なるのかもしれません。
人間にしても、襲ってくる生物をやっつけるのは当然のことですから、誰が悪いとかいうこともないのかも。
災害のような感覚になりそうでした。

ゴジラの存在を通して、政府や国の不誠実さとか、敗戦により心身ともに傷を負った人々の苦悩とか、誰もが関わりたくないことにも、誰かが貧乏くじを引かねばならないと諦めてまたは覚悟して真摯にことに当たる姿とか、人々の気持ちや想いの強さや弱さや素晴らしさなどを描いているように思いました。
象徴するように、敷島の心の弱さ、優しさ、自分への戒め、典子や明子や仲間への愛、使命感や勇気などがわかりやすく描かれていたのかなと。
いろいろな場面で怖かったり辛かったり悲しかったりもしましたが、典子の明るさや優しさに救われたり、仲間の絆に感動したり、ヒューマンドラマの要素がそこここにあり、好きなタイプの作品です。
例によって、いろんなシーンで泣きましたとも。
特に好きなのは、未来に希望が持てるような感じのラストかな。
もちろん、不穏な空気もありますけれども、それでも人は生きていかざるを得ないなら、できるだけ未来は明るい方向が望ましいかと。





「法廷遊戯」
キャスト:永瀬廉、杉咲花、北村匠海、柄本明、生瀬勝久、筒井道隆、大森南朋、戸塚純貴、黒沢あすか、倉野章子、やべけんじ、タモト清嵐ほか
監督:深川栄洋
原作:五十嵐律人

原作は読んでいません。
若き法律家の原作者は弁護士さんです。
予告編から感じた印象と作品はちょっとテイストが違いました。
ミステリの要素が強いように思いました。

弁護士1年生の久我清義(セイギ)は、ロースクールで司法試験合格を目指して勉強漬けの日々を送っていた頃に想いを馳せる。
在学していたある日、かつてセイギが犯した罪を暴くビラが何者かによりばらまかれた。
セイギの犯した殺人未遂は、ロースクールの同級生で同じ児童養護施設で育った美鈴を守るための行動だった…。
セイギへの嫌がらせと時を同じくして美鈴の身辺でも不穏な事象が次々と起こり、美鈴は疲弊していた。
二人が通うロースクールの同級生には、黒い法服を纏い「無辜ゲーム」と名付けた裁判ゲームを主宰する、学部時代に司法試験に合格した天才の結城馨がおり、彼もまた脅迫されていたという。
卒業後、セイギは弁護士になり、馨はロースクールに残り、美鈴は今なお司法試験合格を目指している。
久しぶりに無辜ゲームを行うという報せを受けてセイギは会場に向かうが、そこで目にしたのはナイフが体に刺さり息絶えて倒れている馨と、全身血まみれで呆然と立ち尽くす美鈴の姿だった。
美鈴の依頼を受けてセイギは美鈴の弁護を引き受けるが美鈴は無罪を主張するも、黙秘する。
殺害の一部始終を撮影していた記録がある中、その映像に違和感を覚えるセイギ。
接見時に美鈴が口にした「これは結城くんが最後に仕組んだゲームで、プレーヤーはあなたなの」という言葉。
意外な弁護を展開しつつ、馨の父と美鈴、そして自らにある接点があったことを知る。
本当に罪を犯したのは誰か、裁かれるべきは誰なのか…。

上手い展開だと思いました。
目に見えるとおりのストーリーをなぞり、驚き、恐れ、感情移入をして・・・、ところが違和感を感じ、何かがひっかかり、やがてその理由を知らされる。
二転三転する物語の進行、もしやこれはフェイクかと思い始めるとどこに真実があるのかわからなくなる。
やがて少しずつ解きほぐされていく謎の数々には、思い当る伏線が必ずあって、その回収は見事でした。

最初は「恨み」や「復讐」がその理由だったかもしれない。
馨の「有罪か無罪かは裁判官が決めますが、冤罪かどうかは神様しか知りません。」という言葉が示す「本当の意味」は?
罪を共有していた高校時代のセイギと美鈴、そしてその頃知らずに出会っていた馨。
思うよりも複雑で深い因縁。
大切な人の自殺の原因究明を司法に求めその名誉挽回を図ったが、目的を果たせないまま、信じた友人に裏切られた・・・、辛いね。
でも裏切った方も守りたい人を守るべく、止む無くとった行動だった・・・、これも辛い。

感情移入の対象により、物語の様相が反転する、計算された構図。
もう、誰に感情移入したいかもわからなくなった。
やり切れなさで一杯になり、ちょっと辛い作品でしたが、構成や脚本や役者さんたちの演技はとても良かったと思います。



「正欲」
キャスト:稲垣吾郎、新垣結衣、磯村隼人、佐藤寛太、東野絢香、宇野祥平ほか
監督:岸善幸
原作:朝井リョウ

原作は読んでいません。
朝井リョウさんの作品はいくつか読んでいて、結構好きな作家さんなので、読もうかな。
文章だとどんな感じになるんだろう、と映画を先に見た時に必ず思いますが、今回も例外ではありませんでした。
先に原作を読んでいたら、どんな映像になるんだろうって思うのでしょうけれど。

淡々と静かに進む時間、ちょっと抽象的な感じの観念的なシーンが多い印象で、そこから登場人物たちの想いを受け取るのはハードルが高いな、と感じました。
感性で受け止める感じなのかな、とも思いましたが、一方で世間が求める「常識」の壁と、マイノリティな「何か」を持つ人々の葛藤が描かれているようにも思いました。
テーマも映像の雰囲気も空気も重めな作品です。

あらすじ、というのがなかなか難しい作品です。
パンフレットのStoryでも主だった登場人物たちの紹介、のような体裁です。
一見、あまり関係の無さげな5人の登場人物ですが、偶然も含め、少しずつ近づいて…。
横浜地方検察庁に勤める検事の寺井は、不登校インフルエンサーに感化された小学生の息子と、息子を応援したいという妻に手を焼いている。
広島で両親と暮らし、ショッピングセンターで働く夏生は、日々言葉で表せない想いを悶々と抱えて暮らしている。
横浜から15年ぶりに広島に戻った佳道は、中学3年で転校するまでは夏生と同じ中学に通っていた。
同じ大学に通う八重子と大也は、大学祭実行委員と、実行委員会から学祭出演を依頼されたダンスサークルのメンバーの関係だが、ある事情で男性が苦手な八重子が大也だけ平気なことからとても気になっている。
寺井が扱っている案件と似た事件が15年前に発生した事実を知り、寺井と事務官の越川はある仮説を立てる。
15年前警察施設から水道の蛇口を盗んだ容疑者の「水を出しっぱなしにするのが嬉しい」という発言が常軌を逸していると感じた寺井、15年前同じ記事の発言を笑うクラスメートとは違い、一人共感した夏生は学校の旧い水道で蛇口を壊し盛大に水を浴びる佳道と遭遇する。
15年後再会し、ある秘密を共有する二人は横浜に移り、共同生活を始める。
ダンスに打ち込む大也は自分のうちから湧き上がる欲望のカタチがわからずに苦悩している。
やがて寺井の息子のYouTubeでそれぞれが個別に繋がり、実際に会い、そして…。

欲望って…、出世欲とか購買欲とか独占欲とか食欲とか性欲とか、その種類やカタチは数限りなく、それは個人によって様子も異なる。
「正欲」という言葉は著者の造語と思われ、作品中では「水」の何らかの状態に性的な欲望を持つ、性的指向マイノリティが描かれていることから、「正しい欲」という意味なのかな、と想像する。
多くの人とは共有できない性的指向は、つまりは多くの人から理解を得られない。
時に他人を巻き込み傷つける結果を招く性的指向もあり、たとえば小児に向かう性癖などは犯罪につながることもある。
この作品では不運な誤解が描かれるが、その誤解が正しいものとされ、裁かれるいわれのない人間が罪に問われて・・・、怖いと思う。
冤罪はこんな形でも生まれる。

多様性を認める世界の実現は遠いのか。
数の論理でつぶされていくマイノリティな人々。
恐ろしく暴力的な構図に思えるし、だいたいが平凡なんだけどいろんなシーンでマイノリティな私には、ある意味切実だ。
人は自分の理解の範疇を超えると、嫌悪感とか危機感を覚えるのか。
司法に生きる人たちが多様性を認められないなんて、恐ろしい。
正義の名のもとに裁かれる無力で非力で善良なマイノリティの人々…。

全然救いがないじゃん、って悲愴になりかけましたが、稲垣さんと新垣さんが対峙するシーンでの、新垣さんの言葉と、その言葉に心を動かされたであろう稲垣さんの表情に少し光が見えたような気がしました。
他者に危害や迷惑を及ぼさない限りは、どんな価値観も他人がとやかく言うものじゃない、と思う。
現実には他者とのかかわりの中で、価値観の違いで衝突することが多いから、なかなか簡単でも単純でもないとはわかっていても。
それでも自分が幸せに生きるためにも、他の誰かの生き方や価値観を理解できないのは仕方ないから、否定するのは避けた方がいいように思う。

映像表現が難しくて理解しづらい部分もありましたが、正しい解釈が何ということでもないのかな、とも思います。
共感するところが少ないのも事実でしたが、気持ちは伝わってきた感じかな。
平和に静かにひっそりと、でも楽しく自らの欲望を満たして生きていけたらいいのですが。