神経質なところはあるし、変なところで潔癖症だったりもするのだけれども、とにかく繊細ではないとずっと思っていました。なんというか、女の割に情緒的なものが足らんのではないのか、というか。

 

だいたい子供の頃というか、ほとんど赤子に近い時から、泣いたら負け、みたいな感じでずーっと過ごしてきて、だから世の中の人が、「泣ける映画」とか「泣ける本」というものをありがたがる気持ちが今一つ分からないのだけれども、老人ホームで働くようになって、人が亡くなるたびにどうしても号泣して、自分でも意外でした。

 

なんか皆に、こいつ女らしく見せようとしてるんじゃないの、とか思われたらいやだな、と思ったものの、悲しいんだから仕方ないと、わあわあ泣く、という自分に困ったものの、異常なほどにすごく好きだと思った、きっとお転婆だったであろうししっかり者であったのであろうおばあさんが、公休日に亡くなった時に、出勤して知ってからあと二日半ぐらいしくしく泣き、その方のベッドを整える業務時に、実習生がついていたのに号泣せざるを得なくなって困ったりしましたけど、それを見ていたおばあさんが「かわいそうにねぇ」と一緒に泣きだした時に、しっかりしなかったらいけないんだな、と思って以来、どうにも泣けるときはあるものの、わあわあ泣かないし、人前で泣かないようになれましたけれども。

 

そういえば読書は幼児のころから好きなことで、今は忙しいし、読みだすと変な集中をしてしまうので、体力も衰えている今はもう、小説ではなく新書なんかを読むばかりになってしまっているのではあるのだけれども、恋愛が主体の小説はほとんど読んだことがないのです。そりゃ、普通の小説でも推理ものでも、要素として恋愛は入ってくる場合が多いけれど、主体ではないものが読みやすい、ということです。

 

とはいえ、あまりにも有名な、これは恋愛小説というより青春小説であろうと思われる、サガンの『悲しみよこんにちは』から入って、彼女の作品は結構な数を読みましたけれど、割と淡々としているので好みに合ったのであって、では他の作者の恋愛小説を読んでみようと手を出したものたちは、ことごとく惨敗しました。別に、サガンが情緒に欠けるわけではないんですけども、淡々と、ちょっと冷めた感じだけど人々の心はいろいろ動いていて、というか、なんかこういうの人生だよね、というような。

 

ちなみにいつも、どの小説の主人公が好きかな、と思った時に、色々な名前が浮かぶし、小学校二年生の頃からずーっと憧れのシャーロック・ホームズとか、小学校三年生ぐらいの頃、毎日、シリーズの三冊を順繰りに読まねば気が済まぬほどに本人になりたかった長くつしたのピッピとか、同じころに、親の出身地が被るからという理由で読んだ損をしてしまうけど気持ちを優先する坊ちゃんとか、他にもいろいろ思い浮かぶのだけれども、どうしてもホールデン・コールフィールドを、なりたかった存在であり、なれなかったから私は大人としてすでに中年になって生きているのであり、にもかかわらず未だに憧れる人間、と思っているので、もしかしたら多少繊細なのかも(笑)

 

十代の頃は、ホールデンになりたいというか、この人は私なのかもしれないぐらいに思っていたとはいえ、『ライ麦畑でつかまえて』よりも同作者の作では『フラニーとゾーイ』のほうが断然好きで、これは単純に、ゾーイみたいな兄さん、というものに憧れていたのと、フラニーの自意識過剰な感じが十代の少女だった私にとてもよく分かったからではないかと思うんだけれども、歳を重ねてくると、ホールデンはもう失われた時間の中にいる自分のようにしか見えない辺り、『ライ麦畑』は読み返してしまいます。私も、純粋な気持ちでライ麦畑の捕まえ係になって生きられたらいいのに。

 

で、繊細じゃないと思ってたけど、なんなんだ、という話。

 

コロナ鬱という言葉があるけれども、ここ数週間は全く何ともないような具合で、陽気に過ごしていたけれども、なんかもう、ふとしたきっかけでダメな感じです。

 

昨日は久々に眠れないでいたので、出勤したもののふらふらで、仕事場でもちょっと嫌なことがあったからもう、どんどん具合が悪くなって、とは言っても私の周りにいらっしゃる方々はとても優しくて、繊細ではない私がちょっと涙ぐみそうになるぐらいにありがたい感じではあるんですけれども、午前中で早引きさせてもらって、食事も、いつも食べ過ぎなのだからいいんだけど、注射量を最初に少なくしておかないと食えないぞ、と最初に思って、少なく打って案の定途中で胃が痛くてやめて、しかもまた寝られず、という感じ。

 

周りの人たちは優しいし、皆に大変な思いをさせるのだからと思っているのに、結局今日も欠勤してしまいました。

 

若い頃よりも、死というものが近くなっているからなのか、若い頃、明日死んだとしても、だから何なのだろう、と思っていたというのに、それにそんな風だから病気になった時にも、まだ甥っ子たちもいなかったし、割合とすんなり受け入れられて、未だに病気であることの何が気に入らないのかといったら、動きたいときに急に血糖値が下がると動きにくくなるので、動かない奴にその時だけうつしておけたらいいのに、そうすりゃ腹も立たないだろうし、とかいうあたりなのだけど、なんでか分からんけど、コロナは怖いなと思っています。

 

今やもう、死ぬのも怖くなっているのだろうし、相撲取りの若い子が亡くなったのだから、数値がめちゃくちゃな自分だって危ない、という気持ちにもなったし、色々な理由があって、どうもなくてもいいような部分の情緒が不安定。