しかし、幸せは探せるものではありません。それは結果であり副産物です。

 

幸せをそれ自体のために追求するなら、意味がないでしょう。

 

幸せは招かなくても来るのです。

 

そして、幸せだと意識したとたんに、もはや幸せではないのです。

 

君たちは気づいたことがあるでしょうか。

 

特に何でもないことで不意に喜ぶとき、そこにはただ微笑んだり、幸せであるという自由があるのです。

 

しかし、意識したとたんに、それをなくしてしまうでしょう。

 

自分で意識して幸せだったり、幸せを追求したりすることは、まさに幸せの終わりです。

 

自我とその要求が片づけられるときにだけ、幸せはあるのです。

 

君たちは数学について多くのことを教わるし、歴史や地理、理科、物理や生物の学習に日々を過ごします。

 

しかし、君や先生がたは、これらのはるかに深刻な問題を考えるのに、そもそも時間をかけるのでしょうか。

 

背筋をほんとうにまっすぐにして、動きもなく静かに坐り、静寂の美しさを知ることがあるのでしょうか。

 

心をささいなことに関してではなく、のびやかに広く深くさすらわせ、それによって探求させ、発見させることがあるのでしょうか。

 

 

J・クリシュナムルティ『子供たちとの対話』より 平河出版社/日本語訳:藤仲孝司さん